« 西日本文学展望「西日本新聞」15年10月30日朝刊長野秀樹氏 | トップページ | 町田文芸交流会「10月30日の集い」の状況から=事務局・外狩雅巳 »

2015年11月 4日 (水)

ドキュメンタリーと抒情

  体験を直接的に表現できるのが詩である。体験というものは未来に存在しない。つねに過去に置き去られている。ある意味で、これは定石のようなものだ。そのためか、三好達治は詩集「測量船」に「僕は」で、--僕は、僕はもう疲れてしまった。僕はもう、自分の歌を歌ってしまった、この笛吹くな、この笛はもうならない、--としている。
 大岡信は、これに冷水を浴びせる詩を伊藤静雄が書いているという。
 伊藤静雄は「寧ろ彼らが私のけふの日を歌う」において、--輝かしかった短い日のことを/ひとびとは歌ふ/ひとびとの思い出の中で/それらは狡く/いい時と場所をえらんだのだ/ただ一つの沼が世界ぢゅうにひろごり/ひとの目を囚へるいづれもの沼は/それでもちっぽけですんだのだ/私はうたわない/短かかった輝かしい日のことを/寧ろ彼らが私のけふの日をうたふーーと書く。
 大岡信はこれを、伊東静雄が過去の輝かし日(主題)に向かうのではなく、逆に現在の彼自身(主題)の中に過去の日々を吸い取り、存在の記憶を現在化し、非時間化してしまおうと考えたのではないか、という。
 なぜ、こんなことを話題にするかというと、文芸同志会として、「詩人回廊」の仮題「工場と時計と細胞と」を、叙事詩として、「外狩雅巳の世界2016」のメイン作品にする計画を考えている。北一郎は、前述のような手法を前提に、解説をどうするか考えている。「なんじゃ、これは?」言われるか。どうなるかわからないがやってみようか、という気分である。
 すでにわかっていることを書くなら、ミステリーでも書けばいいのだから。

|

« 西日本文学展望「西日本新聞」15年10月30日朝刊長野秀樹氏 | トップページ | 町田文芸交流会「10月30日の集い」の状況から=事務局・外狩雅巳 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 西日本文学展望「西日本新聞」15年10月30日朝刊長野秀樹氏 | トップページ | 町田文芸交流会「10月30日の集い」の状況から=事務局・外狩雅巳 »