ドキュメンタリーと抒情
体験を直接的に表現できるのが詩である。体験というものは未来に存在しない。つねに過去に置き去られている。ある意味で、これは定石のようなものだ。そのためか、三好達治は詩集「測量船」に「僕は」で、--僕は、僕はもう疲れてしまった。僕はもう、自分の歌を歌ってしまった、この笛吹くな、この笛はもうならない、--としている。
大岡信は、これに冷水を浴びせる詩を伊藤静雄が書いているという。
伊藤静雄は「寧ろ彼らが私のけふの日を歌う」において、--輝かしかった短い日のことを/ひとびとは歌ふ/ひとびとの思い出の中で/それらは狡く/いい時と場所をえらんだのだ/ただ一つの沼が世界ぢゅうにひろごり/ひとの目を囚へるいづれもの沼は/それでもちっぽけですんだのだ/私はうたわない/短かかった輝かしい日のことを/寧ろ彼らが私のけふの日をうたふーーと書く。
大岡信はこれを、伊東静雄が過去の輝かし日(主題)に向かうのではなく、逆に現在の彼自身(主題)の中に過去の日々を吸い取り、存在の記憶を現在化し、非時間化してしまおうと考えたのではないか、という。
なぜ、こんなことを話題にするかというと、文芸同志会として、「詩人回廊」の仮題「工場と時計と細胞と」を、叙事詩として、「外狩雅巳の世界2016」のメイン作品にする計画を考えている。北一郎は、前述のような手法を前提に、解説をどうするか考えている。「なんじゃ、これは?」言われるか。どうなるかわからないがやってみようか、という気分である。
すでにわかっていることを書くなら、ミステリーでも書けばいいのだから。
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