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2015年10月12日 (月)

なぜ外狩作品か? 日本資本主義の体現と証言にこだわる

  現在「詩人回廊」外狩雅巳の庭で、「工場と時計と細胞と」(仮題)を外狩雅巳氏が連載している。よく、文芸同志会がなぜ、外狩会員に重きを置くのか、という疑問を投げかけられる。これはたまたま、日本の資本主義の歴史のなかで、外狩雅巳の年代において、(それは団塊の世代をふくめて)制度的な長所の発揮された黄金時代であったのではないか。という見方をしているからである。この時代の日本の高度成長のシステム参考にして、韓国、中国が成長を遂げてきた。ある意味で、原料を輸入して加工して価値を増やし、そこに収益を得るという資本パターンの成功例を示したのである。
 それはモノ作り国家のひな型になった。その先端を走った日本は、現在はサービス産業がそれにとって代わっている。資本の動きも変化した。この間において、社会的思想の背景として、労働者と資本家という階級意識のなかで、外狩雅巳の体験にどんな文学的な意義が見いだせるのか、その問題意識にこだわっているのである。
 現在、北一郎こと伊藤昭一は、その解説の糸口を構築している。社会の形を反映しない文学はない。問題なのは、どの国の社会も世界を駆け巡る巨大資本の活動と無縁ではいられないことだ。
 ノーベル文学賞とて、スベトラーナ・アレクシェービッチ氏という一地域の特性ある文学者を選んだ。世界共通の意識をさぐりあてた、村上春樹氏ではなかった。タンポポは、やむを得ず種の落ちた場所、しかもその存在が許される特殊な場所でしか生きられない。この特殊性こそが文学の根本だと思うのである。

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