文芸時評9月=意識の流れのリアリティ・石原千秋氏
川上未映子「苺ジャムから苺をひけば」(新潮)は、語り手が幼くして母親を亡くした小学6年生の「わたし」に寄り添って、父親に前妻がおり、子供までいることを知った「わたし」が友人の麦彦と会いに行くまでを、「わたし」の意識の流れに沿って書く。昭和初期にフロイトの影響を強く受けてはやった「意識の流れ小説」と児童文学とを組み合わせた趣である。終わり近く、「わたし」が早くに亡くなったのでほとんど記憶もない母親に宛てて手紙を書く。「お母さん、わたしは、思いだせることがないのに、お母さんを思いだすと涙が出ます」と。
この感覚は痛切にわかる。家族は記憶で作られる文化なのだ。だから、「お母さん」という言葉で「思いだせることがないのに、お母さんを思いだす」ことができる。しかし、血がつながっているはずの異母姉はそっけない。タイトルの「苺ジャムから苺をひけば」は、「血縁者から血のつながりをひけば」と読み換えることができる。残るのは「記憶」だけだ。たとえそれが幻であっても。人間はのべつ幕なしに何かを考えているわけではないから、「意識の流れ小説」のリアリティーは文体にかかっている。小学6年生の意識を書く文体としては整いすぎているが、テーマの重さはわかる。
早稲田大学教授・石原千秋 リアリティーの在りか(産経新聞)
| 固定リンク
コメント