外狩自分説話の「記憶の単純表現」での文学性
このところ、詩人回廊に外狩雅巳の新「自分説話」が連載されている。もしこれを、筆者が同人誌に発表するものとしていたら、このような記憶になんらかの細工をして、お話にまとめていたであろう。それでは、ただの想いで話となり、現在性を失っているだろうと思う。たまたま、ネットの自己表現であることから、心に浮かんだ事件をそのまま書いた。ここには頭に浮かんだ記憶が、なにかにつながることなく、時間の切り取りとして、そこに提示される。その生々しさ。それだけ、過ごしてきた時代の変化がいかに激しいものであったか。その表現性には、理由付けや理論化されるいとまもなく、単なる記憶として、そこに存在するしかない事情がある。そのことが、現代人の環境を宿命的な表現として、文学的に読めるのである。素材そのもの活かして、料理をこしらえる、日本的な表現への回帰。-というより時代のなかの詩的表現の変容に思える。
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