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2015年7月29日 (水)

文芸時評7月「火花」と「芥川賞」の価値=石原千秋教授[

  「火花」はこれと同じだ。要するに『蒲田行進曲』のパターンで、お笑いコンビ「スパークスの徳永」が「あほんだらの神谷」を慕い続ける話なのだが、肝心の神谷にちっとも魅力がない。「徳永さん、お気の毒」である。文芸雑誌に掲載される作品として平均的なところだろうか。だから、「芥川賞受賞作品以上でも以下でもない」と言うしかないのである。

 『群像』の「創作合評」(中条省平・野崎歓・大澤聡)では、最近では珍しく、金原ひとみ「軽薄」にかなり厳しい評価の言葉が飛び交っている。「稚拙」という一言を言わないためだけに語り合っている趣だ。ほぼ同意するが、次の発言は気になった。「主人公に対する客観的、批判的まなざしが盛り込みにくい」(野崎歓)

 一人称小説(特に「私小説」)にありがちな批判だが、大学の人文系の教員が「客観的」ということがあり得ると信じているらしい幼稚さはさておき、なぜ「主人公に対する客観的、批判的まなざし」が必要なのか。おそらく、偏向した主人公を相対化する「正しい主体」を小説に設定すべきだということだろう。まるで道徳の時間だ。最近の文芸雑誌が退屈なのは、こういう批判が横行しているからだろう。偏向した主人公にピッタリ寄り添って狂おしいまでに語りつくしていいではないか。僕はやや苦手だが、デビュー当時の中上健次がそうだったではないか。「文芸雑誌版道徳の時間」はやめてほしい。《参照: 「火花」が決めた芥川賞の「価値」 早稲田大学教授・石原千秋
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