文芸同人誌「季刊遠近」第57号(川崎市)
【「蝸牛」難波田節子】
かつて多くみられた日本の家族の典型的な構造がある。その家に嫁いだ由香という女性の視点で、その事情を細部にわたって描く。由香は家つき、姑つき、夫の姉という小姑つきという、すべてが付いている男と結婚する。もちろん同居である。現代女性が最も嫁入りしたがらない家風である。
出勤する夫の峻一を由香が見送る。その前に長女の峰子が出勤するときには、姑の藤枝が玄関まで見送る。結婚前は、峻一と峰子は家を出ると、連れだって駅まで一緒であった。そのことをあとで由香は知る。峰子と峻一は腹ちがいの姉と弟で、峰子は借金を残して亡くなった父親の後始末を、働いて整理し、弟の学費まで支援した。藤枝は、そうした義理の娘、峰子を大切にする。義母の藤枝はお茶の教室の先生であるが、その収入はたかが知れていて、すべては峰子が頼りである。この家での家長的存在は、峰子であることがわかる。
夫の峻一は長男という意識はあるが、姉の峰子には頭が上がらない。姉より先に結婚したことにひけ目を感じている。そのため、由香と峻一との結婚生活は、下宿人のようで、夫婦の営みですらのびのびとすることが出来ない。
そうしたなかで、家の犠牲になって働き婚期を逸した峰子に縁談が起きる。一度目は彼女が高校中退ということで断られるが、二度目は、人物は問題がないが男性の機能に問題がある。性交渉の期待できない結婚である。周囲はその縁談を上手くいくことを望むのである。旧さを残す日本の伝統的な家族構造のひとつの姿を浮き彫りにしている。
人間の社会的な関係をマルクス主義思想は、社会の発展段階の歴史の過程と階級制度に焦点を当てた。要因を資本主義社会に置くことで、それを批判的に捉えた。
しかし、この作品はそうした社会構造とは切断されたところに家族関係が存在することを浮き彫りにしている。ここには資本家と労働者の階級対立は入りこまないし、せいぜい初期の共同体理論のなかで省略されている。
ところが、構造主義思想者といわれるレヴィ=ストロースは「親族の基本構造」を人間社会の特性として捉えた。これは資本主義以前の未開人社会にも当てはまるものである。その意味でマルクス主義思想の不足を補うようなところがある。
内田樹は、その思想の解説書「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)で、私たちが、自然で内発的だと信じている、親族への親しみの感情は、社会システム上の「役割演技」に他ならず、社会システムが違うところでは、親族間に育つべき標準的な感情が違う、と解説する。そして、「夫婦は決して人前で親しさを示さないことや、父子口をきかないのが『正しい』親族関係の表現であるとされている社会集団が現に存在するのです」とする。そして、「人間が社会構造を作り出すのではなく、そこの社会構造が人間を作り出す」と説く。
その例として「男はつらいよ」の寅さんがなかなか結婚できないのも、寅さんに魅力がないためでなく、妹のさくらとの関係が親密過ぎたためだと見る。その先に親族関係の構造の底には、近親相姦を回避するというシステムにまで論が展開するのだが、ここでは省略する。
作品「蝸牛」においては、そのタイトルからして、この論は作者の意図とずれているであろう。峰子はなぜこうまで家族に献身的に尽くすのか、長男の峻一の「絶対的な存在」であるはずの「家の論理」から外れた曖昧な態度、由香の理屈を超えた嫁先への同化意識。これらへの疑問が、生じるところだ。それは、小説的な綻びでというより、親族の生態の現実的反映として読めるところが面白い。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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