「季評-小説」読売新聞」2015年06月13日ー松本常彦氏
名曲の世界観そのままに
「九州文学」が安川電機九州文学賞(賞金30万円)を創設。
井本元義「トッカータとフーガ」(「季刊午前第51号)、「南風」第37号山口道子「花菖蒲」、坂本梧朗「ラスト・ストラグル」(「海峡派」第133号)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ
名曲の世界観そのままに
「九州文学」が安川電機九州文学賞(賞金30万円)を創設。
井本元義「トッカータとフーガ」(「季刊午前第51号)、「南風」第37号山口道子「花菖蒲」、坂本梧朗「ラスト・ストラグル」(「海峡派」第133号)
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『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房)を刊行した後の蓮實重彦が絶好調だ。磯崎憲一郎との対談「愚かさに対するほとんど肉体的な厭悪」(新潮)では、小説における事実のまちがいに触れて、「しかし、『テクスト的な現実』を無視して、史実に照らし合わせて正しくないなどと言い出すなら、小説なんか読むなってことですよ。それはもう小説の『テクスト』ではなくなるんだから」とか「『作者を超えて言葉が一人歩きする』ことは絶対にある」など、小説を読む楽しさをズバリと言う。《産経「テクスト的現実」の快楽 7月号 早稲田大学教授・石原千秋》
清水亮鳴「同行二人(その意義)」(「美濃文学」91号)
浅井梨恵子「紙飛行機」(「mon」6号)、「群系」34号「昭和戦後の文学」特集より市原礼子「高見順-「敗戦日記」における詩のようなもの」・名和哲夫「埴谷雄高「死霊」」・星野光徳「村上春樹論」・長野克彦「地動海鳴」
「季刊午前」51号より小山多由美「作家・檀一雄と能古島-「花逢忌(かおうき)のことなど」
「火涼」71号の中園英助13回忌特集より清水信・衣斐弘行・堀口誠・伊藤伸司
稲垣信子『野上豊一郎の文学』(明治書院)、青井奈津『罪の手ざわり』(葦工房)、有森信二「女王蜂の飛行」(「文学街」330号)、多治川次郎「愛と希望の旅立ち」(別冊「関西文学」50号)、池田幸子「海峡派と私と膠原病」(「海峡派」132号)、高橋直之「老人ブラボー」(「残党」40号)
文芸同人誌案内掲示板ひわき さんまとめ
文芸同志会で発2013年より毎年発行してた個人年刊本だが「外狩雅巳の世界2015」で、3年経った。文芸同人誌ではかつては、3号で終わるのが多く3号雑誌といわれたようだ。それに対して「外狩雅巳の世界」は、現在進行形で、資料としても今後活用できるスタイルになっている。これを累積すれば「外狩雅巳読本」制作の材料になる。外狩氏はその経過と現状を《外狩雅巳のひろば》で記している。個人本にいろいろ評判が伝わってくるというのは、それだけで大したものだ。同人雑誌仲間の「みんな」からの埋没を免れている。
こうした活動は、文芸同志会の文学は個人活動が大事という趣旨による伊藤の提案だが、それを理解した外狩氏の活動によって可能になった。会では、ほかの会員が私家版を制作を手伝っている。私家版だから身内や知り合いに配布するだけで宣伝をしない。中には二刷や三刷りしたのもある。
「外狩雅巳の世界」は、彼の過ごした時代が、世界の軌跡と言われた、日本の高度成長の初期段階から衰退し、資本主義が昔の労働者収奪型に変質するまでのサンプル として作品が使用されている。ドラマ「おしん」が世界でよく観られたというのも、その背後に高度成長し成熟化した日本の姿があったからだ。
人間は、渦中にある自分の時代の世界を客観的にみることができない。70年たつとやっとおぼろげながら、その姿が見えてくるかどうかである。
多くの同人誌作品をを読んで普通のサラリーマンの発想で書かれものも多く、それは特別な環境であることを無意識に示したものである。だからつまらない。外狩の場合、労働者意識を表に出した歴史の証言になる題材が多い。それが面白いと私は思って企画を考えている。
鏡花と同じ紅葉門下で、浅野川べりの旧居跡近くに記念館が立つ徳田秋声(1871~1943)の影は薄い。ノーベル賞作家の川端康成は、秋声が1939年に第1回菊池寛賞に選ばれた際、「現代で小説の名人はと問はれたならば、これこそ躊躇ちゅうちょなく、私は秋声と答へる」とまで評価している。元芥川賞選考委員の古井由吉氏も「男女の日常の苦と、とりわけその取りとめのなさを描いては右に出る者もいない」と語るなど、プロの評価は高い。2月刊の佐伯一麦著『麦主義者の小説論』でも、秋声の<世間の塵労>を身にまとったすごみを伝えているが、人生をあるがままに描く地味な作風もあり、一般ではあまり顧みられていない。
<秋声の作品に光>読売新聞4月24日。
【追悼・間瀬昇】
1966年に本誌「海」を創刊した医師の間瀬昇氏の同人による追悼記事が充実している。なかに「海」の20年を記念して、編集部・一見幸次氏と芝豪氏による間瀬昇主宰者へのインタビュー記事が再録されている。芝氏が「このごろの作品でいえば、読んでいてもちっとも感動がない、もちろん参考にもならない、ただ時間をつぶしただけというのが多くなってきていて、昔ほど熱心に新しい作品を漁ったりしなくなったですね」という。それに対し間瀬主宰者は、「それはどういう文芸雑誌を読んでも言えますね(中略)としながら、しかし、ないことはないと石井仁、玉貫寛という人のもの、吉村昭「冷い夏、暑い夏」などもそれに近いものですが、やはり、さしせまった死に対する感じ方、見つめ方、たじろがずに書いている、というものには感動させられます。」とし、自身の体験からいえば、「書きたいと思うのは、精一杯やった時代ということで、青春時代をテーマにして、というもの。ところが書き尽くしてしまうと、無理してでも何かを書いていくしかない、という面もなきにしもあらず、です。書く人の業といったようなものがね」という箇所がある。現在でもこのような状況があるのではないか、とひとつの公理としてこれが続くのかも知れないと、感じた。
【「斗馬の叫び」国府正昭】
児童虐待で幼い命が失われていく事件は、毎年何件かが報じられている。これは、そうした事件を、新米の新聞記者が取材し、短い記事として誌面に載る過程を描く話。視点は、必ずしもその記者だけとは限らず、関係者の目を通しても語られる。社会的な問題意識が重い効果を生んでいる。
【「砂利ぶるい」宇梶紀夫】
鬼怒川物というのか、このところ地域性にこだわった作品を発表している。警察官をしていた主人公の兄が、大平洋戦争での米軍の空襲で機銃掃射を受け、死ぬ。戦後の復興で鬼怒川の砂利が盛んに掘られる。それから弟は、兄嫁と結婚することになる。かつては、よくあった出来事だが、地道に生きる人々の生活ぶりを描いて、感慨を生む。
発行所=〒511-0284三重県いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
【「浜辺歌」木戸博子】
人生の斜陽の一光景を、若き過去の煩悩に満ちた時期の出来事と結び付けて描いたちょっと変わった趣向の作品である。主人公の私は、「生まれ故郷でひとり息子を待つ母親は惚けている。(中略)ああ、弱きもの、汝は男なり。げに恐ろしきは女なり。まったくもって六十にもなって、つれあいに去られるとは! しかも彼女の相手は私と同い年の同性ときている!」という状況にある。
母親のいるのは港町なのだろうか、新潟に向かう船のなかで、泣いている女子大生に会い、声をかけて知り合いになる。そこで、若い頃に灯篭流しを見物しにいった浜辺で泳いで溺れて意識不明になるが、住民に助けられた昔ばなしをする。動機に自死への試みに近いものを感じさせる。と筋を語ってもきりがないが、話の時代の流行歌やポップスの歌詞を挟み込んで、郷愁と滅びの情感をうまく醸し出している。凋落感を軸にし、小説を読む慰みという意味での面白いものがある。主人公は男性であるが、作者の視線には男の持つ莫迦げたロマンとは一線を画す、女性特有の現実的な視線を感じるものがある。
また、夜の港に着いて「引き潮で露出した岸壁には海草や藤壺が張りつき、あたりには女の秘部の匂いに似た悩ましい潮の香りが激しく漂っていた」という独特の感覚の比喩に驚かされた。自分は地元の銭湯に良く行くが、温泉の黒湯というのに入る。その時に何か懐かしいような、どこかで知ったような不思議な匂いを感じていた。この部分で、私は磯の香りとの関連がそこにあるのかも知れないと、腑に落ちるような気がした。
【「サブミナル湾流」Ⅱ篠田賢治】
連載でⅠがあるのだろうが、前編が短かったのか、記憶がおぼろげである。それでも、これは文章が楽しめた。謎めいたシーサイドエリアでの事件を、哲学的な用語をふんだんに使いまわした文章力に舌を巻いた。ちょっと視線設定は異なるが、ガルシア・マルケス的な味に通じる格別な面白さがある。文芸味を堪能したい文学書好きにはおすすめ。
発行所=〒739-1742広島市安佐北区亀崎2-16-7、「石榴編集室」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
花島さん。ご指摘ありがとうございます。《勝又浩「私小説千年史」出版記念会の記事》誤りのご指摘ありがとうございます。パソコンのブログ設定が不調で、これまで投稿欄が読み取れず失礼しました。近く修正します。
出版流通大手のトーハンが16日発表した週間ベストセラー(7~13日)で、神戸市連続児童殺傷事件の加害男性による手記「絶歌」(太田出版)が総合1位となった。同書は11日に発売され、版元によると初版10万部。
同書の販売については書店の対応も分かれ、東京都と神奈川県で38店舗を展開する啓文堂書店では被害者遺族の心情に配慮して、全店で同書を販売しておらず、客からの注文も受け付けていない。また通販サイト「丸善&ジュンク堂ネットストア」では16日正午現在、同書は「現在ご注文いただけません」と表示されている。担当者によると在庫切れの上、版元と連絡が取りにくい状況で入荷の予定がないためという。
同書の出版をめぐっては、平成9年に男性に殺害された土師淳君=当時(11)=の遺族が同社に抗議し、回収するよう文書で求めている。(産経ニュース2015.6.16)
書店で見掛けることが多い。販売自粛という店があるというのも、難しい問題だけど、読みたい気がするという時代の空気がそうなるなら止めようがない。
名古屋市の町の細部を明記することを条件にした第9回 「ショートストーリーなごや」の作品公募が8月25日の締め切りに。《参照:市民文芸で地域活性化と「ショートストーリーなごや」の公募》
文科省では、国立大学の人文科学、社会哲学の教科は、すぐにはや役に立たないので、廃止するように指示を出したようだ。代わりに企業に役立つ、工学系を主にするという。要するに大学の職業訓練校化である。官僚の天下り先確保の自己保身の企業側論理推進策である。目先の利益を追うものが国家の存亡とかかわる政策をとることの違和感は否定できない。
民間校や民間での人文科学の分野の重要性がます。「この役に立つ、立たない」は、どの視点からなのか、また長期的視点での判断と短期的なそれとは相反するものがある。
歴史には、損な役回りをする人がいる。
名前を忘れられるだけでなく、その業績すら、誰か他の人物の手柄にされ ることがある。
久坂玄瑞が何をしたか、それを答えられる人はかなりの歴史通であろう。
では、中谷正亮と聞いてピンとくる人がどれだけいるだろう。名前も知ら ないという人がほとんどではないだろうか。
幕末の長州において、吉田松陰が煽動者として革命の種を蒔き、種から芽の出た革命を高杉晋作が成就させた……その基盤となったのが松下村塾である、というように解釈されることが多い。
現実は、それほど単純ではない。
松陰の死後、村塾は廃れ、塾生たちは四散した。 それを必死に繋ぎ止め松陰の思想を受け継いでいこうとしたのが中谷正亮と久坂玄瑞である。松陰が点火した革命の種火を中谷、久坂と大切に守り抜き、最後に高杉が花火として打ち上げたのだ。
しかし、中谷は若くして病に倒れ、久坂も維新の四年前に戦死したために、悲しいほどに二人の業績は過小評価されている。この小説では、できるだけ正確に二人の果たした役割を描いたつもりである。
悲しいと言えば、昨今、低視聴率ばかりが話題になる大河ドラマにおいては、そもそも中谷が出てこない。松陰が妹の文を久坂に娶せようとしたとき、あまりにも文が不細工だったために久坂が渋った。それを知った中谷が、「男子たる者が容色で妻を選り好みするのか」と一喝し、久坂が反省して文を妻に迎えたのは有名な話である。井上真央ちゃんは不細工ではないから、こんなエピソードは使えないだろうし、だから、中谷が登場しないのか、と勘繰りたくなる。
せめて小説の中で、中谷と久坂に光を当て、正当な評価をしてもらいたいという思いで執筆した。
ご一読願えれば幸いである。(富樫倫太郎)( 講談社『BOOK倶楽部メール』 2015年6月15日号より)
外狩雅巳です。既に15人から感想などが到着した。その中での注目意見はこれです。
「二人の論を面白く読んだ。良い作家と良い評論家の関係のような気がし、悲劇も大きな可能性の一つでしょうか。一方でライフスタイルの多様化で全的な共通性が失われたことで文体の多様化を総括する事が出来なくなったと述べられてあり、小説を書くのも難しい時のようです。裏を返せば思い切ったモノも書ける時であり良い時代だと思っています」
この方は北一郎評の理解が深く克それを端的な文に出来ると感心している。北一郎評論が読み込まれないのは、論の展開と文体にあるとおもいます。更に、寄贈本への儀礼的な返礼にもあり読者との関係の深め方も原因です。
そして一番に問題なのがテクストの文章の質だと本気で反省している。北一郎の悲劇として本で指摘したように良い作品を対象にして欲しい。持論展開に急でテクストの読み方が粗いし、相応の作品が原因でしょう。
浅い描写の作品ならばそれを認めた上での持論への誘導が必要でしょう。または、それなりの描写・構成の作品になった背景も説明したらどうだろう。
散文詩的な文章の読み方への親切な解説が有れば論も冴えたと思います。
現在の文学状況の把握と方向示唆で斬新な北理論が勿体ないと思っています。
今後も読後感想と意見の返信は続くので更なる展開に期待しています。
折よく、雑誌「相模文芸」30号記念号の完成が重なり追加送付を多めに行いました。相模文芸内でも合評方法を変えて討論の深まりを企画しています。
高齢化した文芸同人会の活性化には工夫と努力も必要だと思います。交流会などの私の守備範囲内でも様々な方法を追求してゆきます。
■関連情報=詩人回廊・北一郎の庭
同人誌雑誌の作家たちが希望を託す? 同人雑誌評をする人たちはどんな先生方か。そんな興味を持つ人々もいるであろうと、姿を多くおさめた。藤田愛子さんは、たしか坂口安吾に師事したとかで、83歳で鎌倉から、東京の千葉よりの船堀までやってきたというから元気である。「私小説千年史」出版記念会の光景から(下)
高橋弘希さん(35)の「朝顔の日」(新潮)/南方戦線で翻弄された一兵士の命を精緻につづる「指の骨」で昨年の新潮新人賞を受け、芥川賞、三島由紀夫賞の候補となった作家の第2作だ。
島本理生さん(32)の「夏の裁断」(文学界)/30歳前の女性作家が主人公。亡くなった祖父の家を片づけ、電子化のため大量の本の背を裁断するよう頼まれた彼女は、トラブルとなった男性編集者との出来事を回想してゆく。
奥田亜希子さん(31)の「午前四時の肌」(すばる)/皮膚炎の2歳の娘を抱えて寝不足なのに、夫に肉体的に迫られて追い詰められる妻の胸中に切実さがある。2年間暮らした同性の恋人の記憶を絡め、恋愛や結婚、出産でも埋まらない心の空白をなぞる。
岡田利規さん(41)の「スティッキーなムード」(新潮)/ショッピングモールに行くほか楽しみのない若い女性を主人公にしていた。現代は社会での自己実現を巡り、精神や金銭的な格差が女性にのし掛かりやすいようだ。その表れの一つとしても読めた。
「群像」と「文学界」では新人賞が発表された。計3作の受賞作のうち、群像新人文学賞を射止めた乗代のりしろ雄介さん(28)の「十七八じゅうしちはちより」にかすかな涼感がある。何事にもいらつくように装っている女子高生の柔らかな内面を、一本調子ではない節回しで歌った。文学界新人賞の加藤秀行さん(32)の「サバイブ」は、外資系の男性エリート社員2人が一緒に住む家に転がり込む「主夫」の青年の物語。勝ち組の物の考え方や生活スタイルの記述が感興を誘う。
板垣真任まさとさん(24)の同賞受賞第1作「声がわり」(文学界)/中学3年の校内合唱大会を題材とした。異性への興味など青臭い話をドラマチックに盛り上げないのが良い。(文化部 待田晋哉)
丸山健二さん(71)の新刊『夢の夜から 口笛の朝まで』(左右社)/鬼が書いた作品とでも呼びたい驚くべき小説だ。山深い渓谷に架かる吊つり橋「渡らず橋」を主人公に、彼から見た春夏秋冬の橋を渡ろうとする人間たちの光景をつづる。
【文芸月評】静かに散る 銃後の描写(読売新聞2015年06月04日)
前にも記したが、6月7日に勝又浩「私小説千年史」出版記念会が開催され、盛況であった。参加関係者は、「季刊文科」、「三田文学」、「まくた」などの文芸誌関係者。人では、松本徹氏、松本道介氏、佐藤洋二郎氏、山崎徳子氏、山口洋氏、藤田愛子氏等々。
どちらかという年配者が多いため、物静かな中での文学を語り合う祝賀会となった。《参照:勝又浩「私小説千年史」出版記念会の光景から》
書評が各紙に出ているようなので、今後これらのふれていない部分を紹介できればいいな、と思う。自分はこれは、日本人の書くもの全体にたいする思想が捉えられているので、個別の同人誌作品に当てはめて考えることができると思った。特に、「私」の欧米における社会的存在感と日本人の書く「私」との相違点がわかりやすく説明されている。
外狩雅巳です。北一郎の小論・単品の作品評は良い。内容は勿論だが読みやすい文章だ。「文芸同志会」からの発言として評論同人誌「群系」のHPで34号の作品評を提出している。この同人誌はホーム頁と掲示板を持つ。会員などが論議の場としている。ここでは作品評単体なので切り口も語り口も論理も冴えていて読み易い。
しかし、「外狩雅巳の世界」三部作に展開した論は余りにも大きすぎた。現代社会と文学の見えない関係を説くには外狩作品は質が低いようだ。
そこを強引に突破しようと論法に性急さと準備不足が丸見えになっている。「群系」作品は名作での社会と文学の関係を解くので彼も意見の展開が深まる。既存の同人誌文芸評論を丸ごと切ろうとするかの様な社会性中心の論理。
大きすぎる対象。一人での出発。前例もなく論理展開の戦術も準備不足。私が同感・同意しても多くの読者が読み込んでくれない論を支援出来ない。
何故なら、私は彼のテクスト作品の作者。伊藤論の浸透を見守るばかりだ。そこで策略に出た。北一郎が展開して来た論、これから書き進める作品論。
その全てにダメ出しを公表する事だ。不備・不足を指摘し注目を誘う。読者が不備・不足を了解したうえで本旨を読み込み感想を深める為だ。
了解した評論家達が外狩作品でない同人誌秀作を元に本旨を展開する。時代と文学作品という切り口が市民権を得る為の策略を考えてみた。
北一郎論の先駆性・合理性が評論会で場所を得たら彼も冷静に書ける。低質な外狩作品を分析し法外な高評を行った北一郎への私の恩返し。
北一郎の評論的不幸の元凶としては読者を泣き落とすしか無いのだ。
■関連情報=「詩人回廊」北一郎の庭
7日は、評論を主にした同人誌「群系」の34号合評会に飛び入り参加してきた。会員の外狩氏のすすめもあったところに、その日たまたま同じビル内で、夕方から文芸評論家の勝又浩氏の出版記念会があった。その時間までは居られると思って、参加した。その日は、執筆メンバー参加者が少ない方だということだったが、自分には文学通がずらりとそろって、盛会の印象であった。また、内容が専門的で、その守備範囲と、内容の濃さに、こちらはなかなか頭がついていけない感じだった。《参照:群系HP》&《「群系」掲示板》。
文学を学んで吸収する場が多彩な現在、それを一部でも聴取できるのは、助かる。今日は今日とて、市民原子力委員会の説明会に行く。原発情報は政府筋から提供されるが、角度を変えた視点ではどうなっているのか、知りたいし、知らせたい。ほかのもと違って原発の放射能は、あるもので、それをなくすことはできない。時代が変われば変化するだろう、などといってもそうはならない。時の流れ身をまかせても、変わらずにある。放射能は死なないし、年も取らないのと同じーー。これは人間の歴史感覚とはかけ離れた永遠性であろう。
本誌については、ジャーナル的な視点から≪暮らしのノートITO「指定廃棄物処分場」の行方(木村幸雄)≫で取り上げている。
【小説「炸裂」秋沢陽吉】
東日本大震災の津波の被災、それを追いかけるように、福島第一原発事故の厄災。県内地域の放射能汚染の見えざる被曝の事実を、外で見る世界と対照して内面からみつめる。取り返しのつかない目に見えぬ被ばくの環境を意識し、打ちのめされるひとりの老いたる住民を描く。文体は、近代文学の伝統を受け継いだ長い節の句読点、息の長い韻を踏むような個性的な魅力をもつ。
原発事故の後でも日々、陽はまた昇り、地域の自然は春夏秋冬の花や生き物を育てる。外的には、楽天的なのどかな風景を眺める白髪の男。その本質は、言われている以上に大量の放射線汚染物質が300年以上も消えずにいる。避けようにも避けられない事実を直視してしまう。
「よりによって、どうしてこの土地だけが、どうしてほかではない私たちだけが、通り一遍の慰めなど一切通用しない。どう取り繕ってもまるで割に合わない。取り返しのつかない絶望的な不利益に直面しなければならないのか。ああすればよかった、こうもできたのではと大抵のことなら反省の上に立って、時が過ぎるのをたよりにして、なんとか立て直すことができるのに、この場合だけは具体的な道筋を示す人とてなく、万に一つも前向きの方策は浮かばない。」こうした打つ手がない事態に陥った心と体が暗欝を刻む。
この内面の暗欝を捨て身の不貞腐れと自暴自棄の心情によって、花見の風景に、街の集会にゆくしかない。何事も問題なく進行しているように国がつくる空気のなかで呼吸するしかない住民たち。
一般的に放射能被曝現象の都市伝説化した噂話はあちこちできく。しかし、そればかり気にする人は奇人とされそうな空気。
本作品では、放射能汚染の幻影的感覚を抱きながら、現実の「花は咲く」世界をも幻影的に受け止める心情を描く。地域性のものというより、日本の潜在意識になりつつある。ふと、これは、1994年に漁船・第五福竜丸がビキニ水爆実験の翌年、黒沢明が三船敏郎主演で制作した「生き物の記録」の主人公の日本脱出計画と、それを異常行動とする彼の親族の話に対応した物語にも読めると感じた。
【「農をつづけながら・・・フクシマにて2015初夏」五十嵐進】
――極私的な関心事としての震災後俳句(6)俳句と社会性――本稿は、詩歌に限らず、文芸の社会性や、芸術的自己表現とプロパカンダ性などの重なり合った要因について、論を進めている。俳人・永田耕衣の「個人と社会」の関係の論が紹介されている。俳句の世界でも、こうした議論があったのか、と勉強になった。
「原発小説論―3・11以前の小説4」(四)澤 正宏】
原発小説とは、ユニークな視点である。今回は、1970年代の小説から、和歌山県の原発設置制作が、実現していない事情から入る。そして、竹本賢三の小説「M湾付近」(民主文学)1976年初出)を対象にしている。当時の反対運動や作品の視点にも論が及ぶ。過去の原発開発の経緯なども絡めて、新形式の評論が生まれている。
紹介者・「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
岩手県一関市に住む小野寺さんは、学生時代から小説や詩を書き続けてきた。この本は1996年、1000部で自費出版した。ただ、それが数年前に、直木賞作家の桜木紫乃さんの手に渡ったことが転機となる。文章に心打たれた桜木さんが、トークイベントなどで紹介していたことが縁で、文庫化されることになったのだ。
決して、派手な本ではない。両親にまつわる思い出や、自らの先祖のこと。漢学を学んだ父とそれを支援した実業家。不意に家を訪ねてきた女性との、ささやかな出来事をつづった「マリアはいますか」。控えめだが端正な言葉でつづられたエッセーからは、東北で戦中・戦後の時代を生き、文章を書き続けてきた女性の確かな筆力がうかがえる。
編集者からこの本を紹介されたという桜木さんは、「言葉の切り口と使い場所を間違えていない。こういう人たちが自分の本を手にとっているかもしれないと思うと、書くことをおろそかにできないという気持ちになる」と話す。
《読売新聞6月5日【記者ノート】自費出版19年後の文庫化》
「外狩雅巳の世界2015」(文芸同志会・刊)は、詩人回廊の「外狩雅巳の庭」の自分説話を編集したものです。贈呈した人たちから感想が次々と到着中です。
この本のメインは二つあります。外狩の手記と北一郎の作品解説兼文学評論です。
一昨年からの年度ごとの発行中で北一郎は外狩作品を三つ取り上げて評論ています。
「外狩ほど、小説において現代の社会思想の変遷を表現した作家を私は知らない」の基調で一貫する作品評群で浮上する同人作品評の現在と真の文学論を予感しました。
が、私の受けた北一郎文への感想は期待はずれです。難解な文では無いのになぜだ!
社会性・思想性・文体の三方向から作品を分析すると明言してもなぜ伝わらないのか。
そんな読者との応答等を元にした北一郎文芸評論の不幸なる報告と説明を展開します。当人が伊藤昭一名で自説の連続解説を始めた機会に北一郎vs通俗読者観察連載をします。先ず手始めに北一郎評論への批判と不満の一端を披露し文芸評論の読み方に迫ります。
北一郎文の難しさ
1、文体
読みやすいのだが北一郎の自説展開へ引き込もうとする性急さが感じられるのだろう。息遣いから作者の対話性が薄く感じられる。読者の躊躇いに向き合う一呼吸が欲しい。
2、構成
強調したいフレーズやエピソードとか著名作家等の引用が唐突感を含むのはなぜだろう。更に、繰り返し感が強く読者は論者の思考が整理されていないと思われる弱点があります。
3、論理
物語作品に親しんだ人は登場者に自身や自身の期待を重ねその読後感の濃厚さで読みます。
北一郎が外狩作品の散文詩性格を指摘してもそこに興味が無ければ理解将とは思いません。
北一郎作品評は読者を限定するもので説得力があったり感性が良い小説好きには不向きでしょう。
理屈で読むのではなく、感情で読む読者は、自作の創作にもその基準を持ちいる事が多いでしょう。
私の贈呈先は同人誌作家や読者が多いので趣味としての愛好です。理論好きの人は少ないのです。
同人会の合評会も本当は印象の読書感想会に近いものです。屁理屈を展開すると嫌われます。
とはいえ、その他には知人もいない私です。この仲間の同意・同感を集めるしか手は有りません。
なので、北一郎論と対面出来る評論理解者は文芸同志会・伊藤昭一氏の配布先を頼りにしています。
今後は私にも様々な返信が有るでしょう。それに即した北一郎評も展開してゆくつもりです。
■関連情報=「詩人回廊」〈北一郎の庭〉
題「仏露の文学」
井本元義さん「トッカータとフーガ」(「季刊午前」51号、福岡市)、戸川如風さん「ペテルブルク狂想曲」(「詩と眞實」791号、熊本市)
「宇佐文学」56号(大分県宇佐市)より椿山滋さん「桜町一丁目・恋待ち商店街」・下村幸生さん「ある物語」、「海峡派」133号」(北九州市)より坂本梧郎さん「ラスト・ストラグル」連載第1回・はたけいすけさん「あしたは 晴れている」
小山多由美さんのエッセイ「作家・檀一雄と能古島(「季刊午前」)
「雑草(あらくさ)」創刊20周年記念より杉山武子さんの特別寄稿
文芸同人誌案内掲示板ひわき さんまとめ
☆文芸同志会への詩誌送付受付が新住所になってより、早速「駱駝の瘤通信」9号(福島市蓬菜町1-9-20、木村方。「ゆきのした文庫」)が到着しました。
B3の大判で42頁の同人雑誌です。詩や短歌と小説・随筆・評論が10作品掲載されています。
扉の言葉で団体の姿勢や作品などの反応が書かれている。東北大地震直後の創刊と記されています。
40年以上の読書会の中から一人が率先し発行して以来の9号に渡る歴史の重さが伝わってきます。
☆「外狩雅巳の世界2015」は五十人に贈呈しました。早くも電話やメール・手紙が到着しています。
「文芸思潮」誌に「文豪の遺言」を掲載した「相模文芸」仲間の木内是寿氏からは丁寧なお祝い文が届きました。
「相模文芸」30号記念誌発行や「文芸思潮」の現状等の盛り上る中での完成は目出度い事だと祝っています。
「相模文芸」創設の私が記念の時期に発行できたのは伊藤昭一氏の支援が大きいとも書いてくれました。
「文学街」や「群系」で活動する相川氏は装丁・造本に感心し製作費などもメールで
問い合わせて来ました。
この様に六月の初日から二つの動きがありました。今後は大量の各地の同人誌が到着する事でしょう。
私の発行本への感想も殺到する事でしょう。伊藤氏と私のサイト閲覧者も急増すると思います。
この機会に伊藤氏の作品論・文学観が話題になり反論・同感等も大いに湧き上がる事を期待しています。
更に、文芸交流会での文学論討議等や各地の同人会内部紹介の中で全体的な文芸気運を作る予定です。
個別の地域で気を吐いている多くの同人会仲間の意気を全国に示す機会と捉えて工夫を凝らします。
■関連情報《外狩雅巳のひろば》
文芸評論が中心の同人雑誌で、今号では昭和戦後文学―日本近代の検証(4)となっている。ざっと目次をみても、対象は昭和時代文学の代表的作家の多くに及ぶ。これらの作家の作品をすべて読んだことのある人は、それほど存在しないであろう。文学に精通した尖った読者に向けたものになっている。そのなかで、杉浦信夫「弁護士の闇」については、ジャーナリズム性の視点から≪日弁連の状況追及!「弁護士の闇」杉浦信夫氏≫で記している。ただし、小説もいくつかある。
【「山口二矢」大堀敏晴】
1960年、当時の日本社会党浅沼委員長を暗殺した山口二矢。その後、少年鑑別所で自死した。その二矢の母親が、少年期の息子を回想する内容。読み手の自分は、ほとんど同年令であったため、当時は自死という行為にも関心を強く持ったものだ。これを読んでも、人間は愚行をするものだと思った当時の印象は変わらない。赤尾敏との関係も記されている。両親や兄との関係は知らなかった。自分は、革新政党や右翼などからの働きかけで内情の一部を知ることで、政治が金で動くということを感じ、資本の論理に関心を高めたことを思い出させた。本作品では、二矢が大義に死ぬことに意味を見いだし、後悔しないという供述がある。ニヒリズムであるが、自分も思春期ニヒリズムに陥った。だが、何もしないでぐずぐずしていることのメリットを見つけ出していくことで、長生きをすることになった。
【「会長ファイル2『謝罪文』小野友貴枝」】
「地域福祉センター」の会長に就任した主人公の組織改革と職員のまとめ役の気苦労というと変だが、問題解決事例がわかりやすく描かれている。設立の経緯がGHQによるものというのは、初耳で驚いた。まず興味を持たせる。自分は、まだ介護制度のない時期に、親の介護用に福祉センターからベッドや車いすを借りて済ました。作品では、市議会議員がベッドを3台も借りようとしたところ職員の応対が悪いとクレームをつけてくる。政治家の存在が、公的な施設での厄介者となる。その謝罪文を書けというので書いたが、それだけではおさまらない。その応対に悩まされ、神経を病む職員の姿。さらに、職員が倉庫の整理をしないので会長が気をやむところなど、いろいろありそうな話で面白い。お役所や公的施設での小説では、管理する側の視線から描かれたものが少ない。貴重な題材をうまく書きこなして問題提起になっている。新分野開拓の素材かも知れない。
【「落とし穴―肥前島原の大名有馬氏」柿崎一】
キリシタン宗教戦争「島原の乱」のなかで、勢力を失っていく有馬家がその決断と手際の悪さが、ほそぼそと存続を維持する話らしい。ぐずぐずすることは、場合によって、問題解決になるといことであろうか。
【「二十年後」高岡啓次郎】
幻想味の強いホラー小説。理髪店の雰囲気描写が良い。手順よく描かれていて、面白がらせる。
【「峠道」五十嵐亨】
これもホラー小説。映画のシナリオのように整然として、セオリー通りだが、丁寧に書いているので、あらかじめ予測できても怖い。霊体となった亡霊が腐敗肉の絡んだ白骨という描写に、唯物的な感じがして異色感があった。ただ、そこまでするならば、筋肉が機能せずに、顎を動かすのに不自由して、言葉が明瞭でないところまでいけば、不合理のなかの合理性がでるのではないだろうか。
編集部=136-0072江東区大島7‐28‐1‐1336、永野方、「群系」の会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎
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