「駱駝の瘤」通信9(福島県)2015夏
本誌については、ジャーナル的な視点から≪暮らしのノートITO「指定廃棄物処分場」の行方(木村幸雄)≫で取り上げている。
【小説「炸裂」秋沢陽吉】
東日本大震災の津波の被災、それを追いかけるように、福島第一原発事故の厄災。県内地域の放射能汚染の見えざる被曝の事実を、外で見る世界と対照して内面からみつめる。取り返しのつかない目に見えぬ被ばくの環境を意識し、打ちのめされるひとりの老いたる住民を描く。文体は、近代文学の伝統を受け継いだ長い節の句読点、息の長い韻を踏むような個性的な魅力をもつ。
原発事故の後でも日々、陽はまた昇り、地域の自然は春夏秋冬の花や生き物を育てる。外的には、楽天的なのどかな風景を眺める白髪の男。その本質は、言われている以上に大量の放射線汚染物質が300年以上も消えずにいる。避けようにも避けられない事実を直視してしまう。
「よりによって、どうしてこの土地だけが、どうしてほかではない私たちだけが、通り一遍の慰めなど一切通用しない。どう取り繕ってもまるで割に合わない。取り返しのつかない絶望的な不利益に直面しなければならないのか。ああすればよかった、こうもできたのではと大抵のことなら反省の上に立って、時が過ぎるのをたよりにして、なんとか立て直すことができるのに、この場合だけは具体的な道筋を示す人とてなく、万に一つも前向きの方策は浮かばない。」こうした打つ手がない事態に陥った心と体が暗欝を刻む。
この内面の暗欝を捨て身の不貞腐れと自暴自棄の心情によって、花見の風景に、街の集会にゆくしかない。何事も問題なく進行しているように国がつくる空気のなかで呼吸するしかない住民たち。
一般的に放射能被曝現象の都市伝説化した噂話はあちこちできく。しかし、そればかり気にする人は奇人とされそうな空気。
本作品では、放射能汚染の幻影的感覚を抱きながら、現実の「花は咲く」世界をも幻影的に受け止める心情を描く。地域性のものというより、日本の潜在意識になりつつある。ふと、これは、1994年に漁船・第五福竜丸がビキニ水爆実験の翌年、黒沢明が三船敏郎主演で制作した「生き物の記録」の主人公の日本脱出計画と、それを異常行動とする彼の親族の話に対応した物語にも読めると感じた。
【「農をつづけながら・・・フクシマにて2015初夏」五十嵐進】
――極私的な関心事としての震災後俳句(6)俳句と社会性――本稿は、詩歌に限らず、文芸の社会性や、芸術的自己表現とプロパカンダ性などの重なり合った要因について、論を進めている。俳人・永田耕衣の「個人と社会」の関係の論が紹介されている。俳句の世界でも、こうした議論があったのか、と勉強になった。
「原発小説論―3・11以前の小説4」(四)澤 正宏】
原発小説とは、ユニークな視点である。今回は、1970年代の小説から、和歌山県の原発設置制作が、実現していない事情から入る。そして、竹本賢三の小説「M湾付近」(民主文学)1976年初出)を対象にしている。当時の反対運動や作品の視点にも論が及ぶ。過去の原発開発の経緯なども絡めて、新形式の評論が生まれている。
紹介者・「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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コメント
早速、丁寧にお読みいただき感謝いたします。こうした、ご努力に頭が下がります。
投稿: 秋沢陽吉 | 2015年6月28日 (日) 13時01分