記憶の真実と詩的真実の「外狩雅巳の世界」シリーズ
東京新聞の文芸時評が5月分から沼野充義氏から佐々木敦氏にかわった。佐々木氏の評のなかに滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス・エキスペリエンス」(「新潮」)についてがある。
それによると、作品は2015年の時点から時間軸があちこち飛び、あからさまな省略や欠落もある。まるでいまらう目の前にあるかのように克明に覚えていることなど、「つまり思い出すとはどういう行為なのかが、この小説のテーマである」としている。
私は、あれまあと、驚いた。というのは、現在「外狩り雅巳の世界2015」という年度シリーズの3年目のものを編集しているからだ。そこでは、「詩人回廊」サイト「外狩雅巳の庭」に掲載された自分説話を、文学作品化することを1年前から考えていて、やっとその編集にとりかかっているからである。
これは、外狩雅巳の記憶が、幾度も繰り返され、重複して、言葉として飛び出し、そこに据え置かれるのだ。
かれの場合、ですます調である。これも面白く、そのままつかえるものだが、それには多少編集者として付け加えることが必要になるように感じた。
しかし、それでは原作者の意向を壊すであろうと思い、ですます調を、たんにである調に変えることで、純原作品とできると考えた。
そしてタイトルは「外狩雅巳の手記」とした。本当は、小説の一種であり、文学作品であるのだが、作者の同人誌仲間たちは、そうは思わないであろうから、「手記」とすれば作文の変形として受け取るのではなかろうかという配慮である。ドストエフスキーの「地下生活者の手記」というのもあるし。
基本的には、人間の記憶は、そのまっま事実とは限らない。記憶や経験のなかでの真実なのである。文学の基本は、経験である。詩もまた経験を言葉に置いたものである。現代詩は、個人的な特殊経験をイメージ化したりするので、他者には難解になる。それが、ありもしない幻影をイメージすれば詩になると考える傾向を生み、詩を堕落させた要因とも思える。しかし、基本は個人の経験の生んだイメージの文字化、言葉化が詩的作品になる。わけのわからないことを言えば、詩になると誤解しているデタラメ派詩人が多い。それはそれなりに言葉の働きで面白いが、まあ、詩人もどきでしょうね。
外狩作品の特徴は記憶の真実が強く太く表現されるので、詩的表現に近い。
いずれにしても、外狩雅巳世界2013~2015の3冊は、編集者があってできたもので、(たとえヘボ編集者でも)それは作品に、独自の意味を付加する効果があるのです。興味のあるひとは、「外狩雅巳のひろば」の下部に住所がありますので、申し込んでみてください。
ちなみに文芸同志会の出版物は、ネットサイト文学フリマでぼちぼち安定的に売れています。フリマの出展料ぐらいは上回り、その他口コミ会員の販売協力で年間2~3万円ぐらいののもので、運営費にあてています。
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