西尾維新の饒舌が生み出したもの
23日(土)にネットサイト「ちきゅう座」を運営する第10回総会に出席させてもらった。2年か3年間に現代史研究会で運営者と出会い話を聞いて以来、注目していたが、当時とだいぶ状況が変わっているらしい。情報発信のひとつの在り方としてユニークであることは変わりない。《関連情報:経産省前テント村の経過》
資本主義経済論の本格的な論が読めるのが自分好みであったが、最近はいわゆる文化欄書評が掲載されるようになった。西尾維新も評論されている。饒舌体の文体が生み出す思想というのもあるらしい。
ちきゅう座<書評 日常性の現在 著者:宮内広利(2015年 5月 24日)より>
――ー 西尾維新は推理小説の中にある思想を組み込んでいる。『きみとぼくの壊れた世界』を読むと、既に文学の方では世界は幾重にも壊われていることがよくわかる。まず、主人公の「僕」はいかにも饒舌で、自分自身をよく意識化しているのだが、別の言葉でいえば、自己の観念に忠実である。彼は、一見、どこにでもいるような高校三年生でありながら、それでいて稀有ということが境界線なくまじりあっているから、突然の契機さえなければ猟奇の影に肩を押されることもないだろう。つまり、どこでもいそうで、どこにもいない、そんな主人公として設定されている。そして、この高校生の周辺にはりめぐらされた恋愛や友情関係が軸となって、他者との間にかわされる生活と意識の糸が、あらすじの展開とともに、より大きなうねりとなってあらわれる。
この主人公には、はじめから相反する意識があった。「僕」は妹、夜月との間に擬似近親相姦的な関係意識を遊んでいる。その一方で、シニカルでどこか遠くを見ているような、自分が世界と関係していないのではないかという、とり残された関係の異和感も感じている。この相反する意識は、どちらが先行するでもなく、妹との愛情関係と世界との異和感とが同居している。そのかすかな揺れ動きの中に、作者のテーマのすべてが流れているとしかおもえない。そんな作者は次のように意識している。
≪不安、恐怖。自分は世界と関係ないのかもしれない、という不安。自分は殺されるかもしれない、という恐怖。それぞれ、病院坂黒猫、琴原りりすから口にされた台詞だが、案外、この二つは似通った要素を含んでいるのかもしれない。≫『きみとぼくの壊れた世界』 西尾維新著
いうまでもなく、この場面において世界と無関係かもしれないという不安と、誰かに殺されるかもしれないという恐怖の二面性が紙一重であるのは特異なことである。わたしの理解では、不安とは時間に対して空間意識の過剰を意味し、恐怖とは空間に対しての時間意識の過剰を意味する。つまり、それぞれ自己に対する関係意識の余剰をあやつりながらも、そのような異変が共存している点が注目されるのである。時間性とは、僕、妹、友達、恋人らそれぞれの顔がちがうようにもっている各自の堆積された経験の総体を指し、空間性とは主人公をめぐる彼らとの関係それ自体を示している。だから、この場合、時間は各人によって経験の蓄積の大小であらわされることもできる。そして、過剰としての時間は、空間を折りたたむように時間化し、登場人物がそれぞれ任意の匿名性にかえがたい思想をもってあらわれてくる。逆に、時間の空間化とは、任意の関係に置き換えられる思想を主人公がもっていることをあらわしている。この主人公に特異なのは、その両面を双方向に「同時」に別の時間性として意識にのぼらせていることなのだ。こうして作者は、主人公とともに、天空から世界を見わたしているように饒舌になっているのだが、その世界はまるで球体の中心から周りを見るような安易さでお喋りしていることに気づく素振りはない。
結局は、「僕」と同じクラスの剣道部の親友と恋人の琴原りりすの二人が犯人ということになるが、それも単なる物語の風景であり、あくまで、特別、波立った事態ではない。ここでは殺人事件でさえ、日常の生活の一齣を覆うような大それた価値をもっておらず、主人公の意識のより奥にある不安感の所在を指し示すものでしかない。作者は二つの相反する意識をみつめることができる視線をもっているゆえに、殺人事件はこうして日常生活に組み込まれていく。しかし、「僕」は理性的であることを誇りに思って最大の能力を発揮しているが、現実は綻びから破滅に向かっていく。そして、まちがいなく確実に、喪失感や不安感の傷痕だけが残るのだ。
わたしには、この主人公の落ち込んでいるのは、いわば、空間の時間化と時間の空間化とを、考える肉体が「同時」にやってのけている場所のようにおもえる。これは、アナーキーとニヒルとが同居する場所ともいえるものであり、いわば、作者は現実でも理想でもないところから世界をみていることになる。わたしは、この主人公の背景には、多くのリストカッターやオーバードーズ依存症の人たちがみえ隠れしているようにおもえる。リストカッターの人たちにはどんな心の振幅があるのだろうか。
≪人はあまりにもショックな状況に慢性的にさらされると、目の前の現実を受け入れないように脳が働き、現実と異なる“べつの人格や記憶”を自分の中に作ろうとするらしい。現実とは違うニセの記憶を自動的に脳に入力してしまうのだ。…中略…これが「解離」。元の人格を「主人格」といい、<ウソ人格>は「二次的人格状態」と呼ばれたりもする。…中略…結局は、自発性(「~したい」という気持ち)のままに切ったり、やめたりしている点が重要だろう。切りたいから切る。見つかりたくないから、こっそり切る。怖いから切りたくない。別に切りたくなくなったから切らなくなった。家族への期待値を下げたら切りたいという気持ちが薄らいだ。自傷は、手近な依存対象(血、薬など)を消費することで、自分自身の<自発的な関心>に自分で「鍵」をかけている行為なのだ。≫『生きちゃってるし、死なないし』 今一生著
時代は滑走を終えて行きつくところまできたという感慨は、いま、あらためて、わたしたちを強く魅惑する。3.11前にはみえなかった稜線がおぼろげに姿をあらわしつつあるからだ。ただし、その感慨が復古的なメロディや無力感を伴走させたりすることは決して許されないのだ。わたしたちは、わたしたちの生活が逼迫しながらも、それが、もはや観念としてしか表現できなくなった例示を、ネット世界の繁盛に象徴させることができる。これほどまで社会そのものと社会認識の異和が落差にまで広がった時代は、かつてわが国の近代史上において戦争期を除いてはなかった。どちらにしても「像」=イメージや言語は意味を解体し、ただシステム価値としてだけで機能している。
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