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2015年5月31日 (日)

記憶の真実を記す「外狩雅巳の世界2015」発行にあたって

 このほど「外狩雅巳の世界2015」を文芸同志会で発行した。《参照:文芸同志会のひろば》。これはブログで語る現在のなかに、過去の記憶が流れる川に突然浮かぶ漂流物のように姿を現す。作者の記憶の真実と現在が「外狩雅巳の手記」である。1942年に生まれ、中学を卒業すると丁稚奉公に出され、まず家庭から社会人となり、カルチャーショックの洗礼を受ける。無産労働者からの人生の旅立ちである。日本経済がどうようにして変化してきたか、それに寄り添った形で、自己所有の家と妻を得て家庭人になる。その社会と個人の関係が記憶の真実のなかに塗り込まれている。現在進行形の作品であるため、終わりの形がない。具体的には、その後の「詩人回廊」に記されているのだが、この作品化の完成形を決める要素として、積み残しをしたのは、編集人・伊藤の発想による文学化への形式の変化の可能性を残したということによる。

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2015年5月29日 (金)

文芸時評(東京新聞5月28日)佐々木敦氏

上田岳弘「私の恋人」奇抜さ大成の予感。
高橋弘希「朝顔の日」感傷を見事に抑制
≪対象作品≫
上田岳弘(たかひろ)「私の恋人」滝口悠生(「新潮」4月号)/文学界新人賞・加藤秀行「サバイブ」/同・杉本裕孝「ヴェジトピア」/群像新人文学賞・乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)「十7八より」/高橋弘希「朝顔の日」(「新潮」6月号」)。
佐々木敦氏は批評家・早稲田大学学術院教授。

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2015年5月27日 (水)

文芸同人の文学フリマ的形態と同人雑誌の傾向について

 菊池寛が芥川・直木賞を設定して以来、伝統的な文芸同人誌の建前は、それらの賞の受賞をねらっ作家志望者が集まって、作品を発表する場であった。現在の同人雑誌評も、建前にとらわれすぎて、批評とはいえない読後感想にすぎなくなっている。そうした建前の形骸化に対応しているのが、市民文芸作品の即売会、フリーマーケットである。そこから見た同人誌情報を記してみた。《文芸同人の作品発表形態と機能の変化=伊藤昭一
 視点の角度で、ほかの見方もできると思う。もうすこし精密さがだせるといいのだが。

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2015年5月26日 (火)

文芸同人誌「マスト」第34号(尼崎市)

 本誌が発行されてから三月も経ってしまっている。遅まきながら、順番に後書きまで全部読み終えた。地下鉄に乗っていたので、読み終えたという達成感のあと、乗り換え駅を乗り越してしまったことが判ったときの落胆と疲労感は、なんとも言えないものがあった。
【「ミセレ―レ 憐れみたまえ」西野小枝子】
 主人公の僕は、失業をしていて、マンション管理の派遣パートタイムをしてた頃の、精神と生活の放浪記である。同居人の彼女がいて、パートで収入を得ているらしく、低収入でも過ごせる余裕があることがわかる。失業の状態を自由な猶予期間と考えている。「ハンナ・アーレント」という映画をみたり、薬物中毒になりかけの若者と知り合ったり、その見聞を記す。話はどこまでも流していけば続く手法。状況説明がわかるので、読みやすく面白い。かつてのビート族のような、現代放浪息子物語の形式。出会った出来ごと人々との交流から、それぞれの生活ぶりを問い尋ねることができる。そのためいくらでも長く書ける。非常に書きやすく、読みやすい手法で、終わりどころのないのが特徴。そうなると、作者センスと世界観が魅力的であることが求められるであろう。その形式のサンプルテキストとして最適のように思う。良し悪しを問われれば、良い方にいれる。
【小説「シンプル イズ ベスト」山脇真紀】
 太極拳の体験から、有段者になるのにどのような苦楽があるかを事細かに記す。この形式は、学校にある作文の、体験したことを手順に記し、終わりは「と、思いました」というパターン。ここでは「そうか、むずかしい太極拳も楽しみながらリラックスしてやっていくことにしようと思えた。」で、ぴったり形式に収まっている。現在読んでいる勝又浩著「私小説千年史」(勉誠出版)によると、日本人の小説のエキスは平安時代から盛んになった日記だそうで、たしかこれは日記小説。面白さはどうかというと、これだけ詳しく太極拳について知ることができれば、面白いことは確かである。
【紀行文「常念岳」大家翆娥】
 常念岳という山にに登った体験記で、形式は山脇さんと同じ。よく記憶したというか、記録したというか。その密度の濃さに驚く。書いていて楽しく充実していたに違いない。読んで面白いかと言えば、面白い。
【「湖の妖精」眉山葉子】
 エリカという、情熱に満ちた女性が、妻子持ちの男性と恋をする。てっきり離婚して結婚してもらえると思っていたのに、男は妻が妊娠したので、結婚できないと言いだした。そこで、愛に命をかけるエリカの波乱がはじまる。エリカの情念と肌合いの熱さを描いて、飽きさせない。面白くて楽しめる小説。大衆小説作家として有望な才気を感じさせる。これだけの情感を活かせる才気があるのだから、ミステリー小説を書いて公募に応じるのも、一つの道かもしれない。時流に合えばの話だが。
【「鈎の陣」松尾靖子】
 女性の境遇で大成金になり、その資金を有効に活かした女傑、日野富子を「私」としてその内面から描こうとしたものらしい。歴史小説である。お金は何時の時代も大事である。富子はうまく使って世の中を変えた、という説もあるが、ここでは反省的な感情が描かれている。
発行所=〒660-0803尼崎長洲本通1‐6‐18‐208、松尾方。「マストの会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2015年5月25日 (月)

西尾維新の饒舌が生み出したもの

  23日(土)にネットサイト「ちきゅう座」を運営する第10回総会に出席させてもらった。2年か3年間に現代史研究会で運営者と出会い話を聞いて以来、注目していたが、当時とだいぶ状況が変わっているらしい。情報発信のひとつの在り方としてユニークであることは変わりない。《関連情報:経産省前テント村の経過
 資本主義経済論の本格的な論が読めるのが自分好みであったが、最近はいわゆる文化欄書評が掲載されるようになった。西尾維新も評論されている。饒舌体の文体が生み出す思想というのもあるらしい。
ちきゅう座<書評 日常性の現在 著者:宮内広利(2015年 5月 24日)より>
――ー 西尾維新は推理小説の中にある思想を組み込んでいる。『きみとぼくの壊れた世界』を読むと、既に文学の方では世界は幾重にも壊われていることがよくわかる。まず、主人公の「僕」はいかにも饒舌で、自分自身をよく意識化しているのだが、別の言葉でいえば、自己の観念に忠実である。彼は、一見、どこにでもいるような高校三年生でありながら、それでいて稀有ということが境界線なくまじりあっているから、突然の契機さえなければ猟奇の影に肩を押されることもないだろう。つまり、どこでもいそうで、どこにもいない、そんな主人公として設定されている。そして、この高校生の周辺にはりめぐらされた恋愛や友情関係が軸となって、他者との間にかわされる生活と意識の糸が、あらすじの展開とともに、より大きなうねりとなってあらわれる。

この主人公には、はじめから相反する意識があった。「僕」は妹、夜月との間に擬似近親相姦的な関係意識を遊んでいる。その一方で、シニカルでどこか遠くを見ているような、自分が世界と関係していないのではないかという、とり残された関係の異和感も感じている。この相反する意識は、どちらが先行するでもなく、妹との愛情関係と世界との異和感とが同居している。そのかすかな揺れ動きの中に、作者のテーマのすべてが流れているとしかおもえない。そんな作者は次のように意識している。

≪不安、恐怖。自分は世界と関係ないのかもしれない、という不安。自分は殺されるかもしれない、という恐怖。それぞれ、病院坂黒猫、琴原りりすから口にされた台詞だが、案外、この二つは似通った要素を含んでいるのかもしれない。≫『きみとぼくの壊れた世界』 西尾維新著

いうまでもなく、この場面において世界と無関係かもしれないという不安と、誰かに殺されるかもしれないという恐怖の二面性が紙一重であるのは特異なことである。わたしの理解では、不安とは時間に対して空間意識の過剰を意味し、恐怖とは空間に対しての時間意識の過剰を意味する。つまり、それぞれ自己に対する関係意識の余剰をあやつりながらも、そのような異変が共存している点が注目されるのである。時間性とは、僕、妹、友達、恋人らそれぞれの顔がちがうようにもっている各自の堆積された経験の総体を指し、空間性とは主人公をめぐる彼らとの関係それ自体を示している。だから、この場合、時間は各人によって経験の蓄積の大小であらわされることもできる。そして、過剰としての時間は、空間を折りたたむように時間化し、登場人物がそれぞれ任意の匿名性にかえがたい思想をもってあらわれてくる。逆に、時間の空間化とは、任意の関係に置き換えられる思想を主人公がもっていることをあらわしている。この主人公に特異なのは、その両面を双方向に「同時」に別の時間性として意識にのぼらせていることなのだ。こうして作者は、主人公とともに、天空から世界を見わたしているように饒舌になっているのだが、その世界はまるで球体の中心から周りを見るような安易さでお喋りしていることに気づく素振りはない。
結局は、「僕」と同じクラスの剣道部の親友と恋人の琴原りりすの二人が犯人ということになるが、それも単なる物語の風景であり、あくまで、特別、波立った事態ではない。ここでは殺人事件でさえ、日常の生活の一齣を覆うような大それた価値をもっておらず、主人公の意識のより奥にある不安感の所在を指し示すものでしかない。作者は二つの相反する意識をみつめることができる視線をもっているゆえに、殺人事件はこうして日常生活に組み込まれていく。しかし、「僕」は理性的であることを誇りに思って最大の能力を発揮しているが、現実は綻びから破滅に向かっていく。そして、まちがいなく確実に、喪失感や不安感の傷痕だけが残るのだ。
わたしには、この主人公の落ち込んでいるのは、いわば、空間の時間化と時間の空間化とを、考える肉体が「同時」にやってのけている場所のようにおもえる。これは、アナーキーとニヒルとが同居する場所ともいえるものであり、いわば、作者は現実でも理想でもないところから世界をみていることになる。わたしは、この主人公の背景には、多くのリストカッターやオーバードーズ依存症の人たちがみえ隠れしているようにおもえる。リストカッターの人たちにはどんな心の振幅があるのだろうか。

≪人はあまりにもショックな状況に慢性的にさらされると、目の前の現実を受け入れないように脳が働き、現実と異なる“べつの人格や記憶”を自分の中に作ろうとするらしい。現実とは違うニセの記憶を自動的に脳に入力してしまうのだ。…中略…これが「解離」。元の人格を「主人格」といい、<ウソ人格>は「二次的人格状態」と呼ばれたりもする。…中略…結局は、自発性(「~したい」という気持ち)のままに切ったり、やめたりしている点が重要だろう。切りたいから切る。見つかりたくないから、こっそり切る。怖いから切りたくない。別に切りたくなくなったから切らなくなった。家族への期待値を下げたら切りたいという気持ちが薄らいだ。自傷は、手近な依存対象(血、薬など)を消費することで、自分自身の<自発的な関心>に自分で「鍵」をかけている行為なのだ。≫『生きちゃってるし、死なないし』 今一生著
時代は滑走を終えて行きつくところまできたという感慨は、いま、あらためて、わたしたちを強く魅惑する。3.11前にはみえなかった稜線がおぼろげに姿をあらわしつつあるからだ。ただし、その感慨が復古的なメロディや無力感を伴走させたりすることは決して許されないのだ。わたしたちは、わたしたちの生活が逼迫しながらも、それが、もはや観念としてしか表現できなくなった例示を、ネット世界の繁盛に象徴させることができる。これほどまで社会そのものと社会認識の異和が落差にまで広がった時代は、かつてわが国の近代史上において戦争期を除いてはなかった。どちらにしても「像」=イメージや言語は意味を解体し、ただシステム価値としてだけで機能している。

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2015年5月24日 (日)

「偽詩人の世にも奇妙な栄光」四元康祐

  主人公は著者と名前の似た吉本昭洋。中原中也に心酔し生活のほとんどを詩にささげるが、内面に書くべきものがなく、詩を書けないでいた。商社の海外駐在員となり、世界中の詩人が集う「詩祭」に参加するようになった吉本は、そこで手にした海外の詩人の作品を翻訳し自作と偽って日本で発表、好評を得るが…。
 翻訳体験を通して詩の言葉を見つける印象的な場面に若き日の自身が重なる。「英語の詩を日本語に訳したときに異様な戦慄を味わったんですよね。翻訳というフィルターを介して、自分をいったん切り落とし空っぽになることで『もどき』ばかり書いていた呪縛から解放された。僕の詩の出発点でもある」
 《 『偽詩人の世にも奇妙な栄光』 独創性とは? 》より。

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2015年5月22日 (金)

第28回中部ペンクラブ文学賞に本興寺 更さん「蔵の中」

  第28回中部ペンクラブ文学賞に、本興寺(ほんこうじ) 更(こう)「蔵の中」(『文芸中部』97号/愛知県刈谷市)に決まった。内容と受賞理由は、江戸時代の、武家の家庭を中心に、政争と人間関係を巧みに描いて、現代のサラリーマン社会にも通じる小説に仕上げたこと。
 本年度は候補作として、ほかに古嶋和氏「サクラ、サク」(「火涼」69号・鈴鹿市)、弥生菫氏「塞ぐ部屋」(「峠」65号・名古屋市)、長沼宏之氏「たそがれ団地」(弦」96号・名古屋市)、朝倉瑠々氏「静かな夜のブルース」(「個人誌」№3・熊野市)がノミネートされていた。 
 また、第28回中部ペンクラブ文学賞特別賞(賞状)が 高井(たかい)泉(いずみ) 詩集『女神(めが)む』(土曜美術社出版販売/岐阜県本巣市)に決まった。「百合(ゆりい)く」から「鳩(はと)む」まで28編に冠詩「女神(めが)む」が収められ103頁。
 表彰式は、6月14日の中部ペンクラブ創立30周年記念総会で行われる。《参照:暮らしのノートITO

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2015年5月18日 (月)

同人文芸誌「澪・MIO」VOL 5(横浜市)

 本誌は首都圏6箇所の販売寿にて販売されているという。「同人文芸誌」というのもいい。内容も社会性をもったものになっている。
【「食とは、真の健康を求める文化です! 名村静美・談」石渡均・松林彩編】
 この企画はジャーナリズムとして、5月16日の「暮らしノートITO」サイトで取り上げさせていただいた。
【「薄紅色の、」石渡均】
 ある独身女性の男性との出会いと、彼との付き合いを断念する事情と心理、それだけを描いて、説得力をもってその心理を描出している。小説内の時間は1時間。短いが、母親の離婚や別離の時の情念を文学性をもって描き、読み応えのあるの良い小説に思えた。
【「東京大空襲被災記(2)」島田昌寛】
 これはこれで戦争風化防止に役立つが、こうした悲劇を起こしたことに対する因果関係の国際的な視野での位置付けも必要だなあ、と思った。もちろん国際的な因果応報論を視野にいれても、事情がどうであろうとも、原爆投下や東京空襲が国際戦争犯罪であることを主張することは可能なはず。
【「シャーウッド・アンダースンー心の奥にうごめくものー『ワインズバーグ・オハイオ』」田村淳裕】
 グロテスクになったと感じる人間を描いた小説の評論。作家が、無意識の予感のなかに社会が産業化する不安を感じた変化を読み取ったのかと、なるほどと納得した。断片的な散文という形式の短篇集についてであるが、あとに同誌に掲載されているポーの評論につながるところがあるような気がした。
【「ポーの美について(ノート)Ⅳ(『ランダーの別荘』、晩年の求愛行為、ワーズワースの詩と自然観、等)」柏山隆基】
 グロテスク論を読んだのだが、こちらはポーと作者の美意識に関する論が、楽しそうに述べられている。美意識というのは複雑である。晩年のポーの女性関係にも話が及ぶが、気持ちよく読める霊性に関するディレッタンティズムとして読んだ。
【「アイの家」柊菫馬】
 気持ちいいことを、思う存分気持ちよく書いた小説。愛に満ちた世界は気持ちいいということか。ちょっと長い小説であった。
【「映画監督のペルソナ川島雄三論Ⅴ」石渡均】
 2008年に執筆されたものだそうだが、JR浜松町駅の小便小僧の由来などがあって、なんとなく読まされてしまう。形式でいうと川島監督をめぐる心と地理的な旅の物語で、そのためか現在の時代との対照が楽しめる。今回は後半に味わいがある。
編集部=241-0825横浜市中希望が丘154、石渡方。「澪の会」 
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2015年5月17日 (日)

文芸同人誌作品の受け止め方と価値判断のいろいろ

 外狩雅巳氏が「まほろば賞」の候補作推薦のための選考会のようすを記している《参照:外狩雅巳のひろば》。わたしも賑やかしで招待された。たしか昨年は、所要で参加できなかったのか、招待されていなかったのか、参加していない。ここ1年ばかり、町田文芸交流会でいろいろな作品を読んできて、だいぶ同人誌の読み方と価値判断の目安を覚えてきたところだ。たまたま、文芸評論家の勝又浩氏が書いた「私小説千年史」(勉誠出版」を読んでいたところ、私小説と日記、俳句・短歌・詩との関係がくわしく記されている。
 それによっても、同人誌のエッセイ風私小説というものの読み方は、単なる印象の良し悪しで価値判断できないところがあることがわかった。
 今回の集まりでも、エッセイ風、ドキュメント風、旅行記風、人間性追求型、癒し文学志向など、多彩で、それに対する受け取りかたが、さらに多彩であったので、大変参考になった。
 

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2015年5月16日 (土)

文芸同人誌「季刊遠近」第56号(川崎市)

【「僕の細道」藤民央】
 75歳の「私」が自分史教室の個人授業を受けるという設定で、その自伝を書くまでの経過が語られている。出来事や経歴をそのまま書いたようになっているが、実際は、斜に構えたというか、自己を客観化する文章に才気があって巧みである。前半部で、自分史のために「人生を振り返ると、どうしても嫌な過去が浮かび、書きたい気持ちをなえさせる」というのである。そして軽妙な文章で、実際には、重く暗さをもった過去を明らかにしてゆく。
 文章を教わるどころか、教えて欲しいほどの間合いの良さがある。読みながら、風刺精神に満ちた疑似私小説ではないか、とも思った。第一文学的素養が豊かである。しかし、婚外子の設定など、具体的な自分史に近いような細かい経緯があって、かなり事実に即したところがあるのかな、と思い直したりした。
 例えば、「私」の自分史を評して講師が「あなたは自分を小さくようとする。他人からバカにされて当然です」というところがある。これは文章表現のコツで、この作品の主柱となる優れた姿勢の筆法である。読者の優越感を誘いだし、作品を面白くしている要素である。それすら読み取れない人が文章の講師になどをしていることになる。事実を書いたというより、同人誌の小説やエッセイで、作者が偉くて善人で立派な人格者であることを前提してるものが多いのを揶揄しているようで、創作的な意図が見えるようところもある。
 身辺小説では、文章にひとひねりする工夫がないと、退屈で読まれないという事実を踏まえている。視線の低さと世間を揶揄する精神が、質を高めている。いずれにしても、読者は気軽に楽しみたいのだ。
 本来は昭和15年という戦前の日本での「妾は男の甲斐性」とされ、婚外子として出生した男の、運命を述べた重い主題があるのだが、重さ苦しさからさらりと身をかわして、軽妙に語れる文章力を発揮するところに、作者の真骨頂があるようだ。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

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2015年5月15日 (金)

文芸同人誌「なんじゃもんじゃ」遍路号・通巻19号(千葉市)

【「わが『残日録』あるいは『エンディングノート』小川和彦」
 大学の教授を退職後、同人誌の自家制作や家族の話、千葉から高知市への転居のいきさつ。78歳に至るまで活動が事細かにしるされていて、生活記録として、読み応えがあり、胸を打つ。小川氏には、以前から実生活から離れた文芸作品も発表してきた。それよりも、この記録の方が読んで面白い。だからといって、創作をするという精神性より必ずしも勝るというものではない、ということを感じた。やっぱり創作心というものには、精神の高貴さがふくまれるのでは、なかろうか。
【「迷走」杵淵賢二】
 刑事物で連載途中であるが、しっかりとした筆致の警察小説ミステリーを描いていおり面白く読める。
【「花のままで」坂本順子】
 若い女子社員時代に職場で、人間味あふれる上司が死の病に侵され、見舞いにいく。上司の奥さんのそれとない気づかいや、人生の儚さを巧みに描く。予定調和的な運びだが、書く方も読むほうも癒し効果がある。
【「雨宿」西村きみ子】
 夫を車で送り迎えし、自宅についたが雨が強い。夫は家に駆け込んだが、「私」は車庫入れして、雨の止むのを待つことにした。その間に、少女時代に父の生家を訪れた時、康夫という男の子がいて、一週間をともにすごし、寝床が隣になったことを想い起こす。その一夜の何事もなかった時間が、記憶に残っている。そして、夫の声で思い出のひと時から我に返る。ロマンを求める女心が意味深長な余韻をつくる。
発行事務局=〒781-8122高知市高須新町1‐1‐14、コーポ高須505号、小川方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

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2015年5月14日 (木)

文芸同人誌「あるかいど」55号(大阪市)

【「豚小屋の礼節」木村誠子】
40年前に大学で同人誌「豚小屋を創刊。その文学仲間のその後の生活ぶりを、ぼくが訪ね行く話。40年もすれば仲間たちもそれぞれ変遷の人生を過ごし、運命に翻弄されている。これは村上春樹もどきだなあ、と思って読んでいると、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」の引用が出て来て、ぼくはその文学に納得するという話であった。引用は、
――そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷とによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を流さない赦しはなく、痛切な喪失を通りぬけない受容はない。――
 村上オマージュで、その作品引用をもって、作品の結論につなげるという、まさにシュミレーション小説である。春樹的比喩こそ不足しているが、この手法でもっても文学的小説になることを証明していて、その影響の受け方の事例として面白い試みに思えた。
 読み物の形式として、訪ね歩いて得た情報を記すというのが有効であるし、ジャーナリズムの取材活動に匹敵する、ということは幾度か述べてきたことである。
【「塩と石」善積健司】
 日本の自衛隊が海外に戦争に出たために、戦時情況となったらしい。中学だか高校だかわからないが、学校の修学旅行が制限され、出雲大社にいくことになる。その引率教師と生徒とのやりとりが長々と続く。近未来の風刺小説的だが、風刺にしては毒がない。登場する生徒たちも個性的であるが、それらの個性が戦時体制とマッチしないのが、面白いといえば面白く、世相の受け取り方のゆるさが、蔓延していることへの風刺にはなっているかも知れない。
 善積健司氏は5月に開催された文学フリマ東京で「大阪文庫」というサークルで出会った。文庫アンソロジー「幻視コレクションー語り継がれる物語の前夜」などに猿川西瓜という筆名で「私のマキナ」という幻視小説を執筆している。どうもこの作者は、うっちゃん(内村光良)のお笑い風刺系コント劇場が合っているようだが、まだ作風への自覚認識が届いていないように読める。才気が空回りしているような気がする。
 このサークルの他の文庫を見てみると、テーマを決めて同人誌仲間が短篇小説アンソロジー文庫にしているようだ。つまり善積名は伝統的な地域文芸同人雑誌を舞台にし、猿川名は、広域文学ファンでの短編小説作家として活動を行っているということになる。ひとつの文学活動の方向性を示すものであろう。
 発行所=545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2015年5月13日 (水)

『リバース』湊かなえさんが講談社初登場

湊かなえさんが講談社初登場です!
『リバース』。 湊さんから皆様へ向けて、今作のご紹介だけにとどまらず、作品の着想の得 方までも語っていただいております!
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 小説推理新人賞というミステリ作品を対象とした賞でデビューしたにもかか わらず、近年はミステリから少し離れたところに位置する作品を書いてきま した。ジャンルに対するこだわりはあまり強くなく、また、書きたいテーマを書かせていただけるという恵まれた環境にいたからだと思います。
 しかし、私には常に書きたいテーマがあるわけではありません。ネタ帳などもいっさい持たず、大概の場合、そろそろ新作について考えなきゃならないけど、いったい何を書けばいいんだろう……、と頭を抱えてしまいます。そんな時、編集者の方にワードを投げてもらいます。「手紙」に興味はありませ んか? 「島」を舞台にしてみませんか? 投げてもらったワードという名 の石が頭の中の池で大きな波紋となって広がると、よし、これを書いてみよ うと、波紋が物語の形へと変化していきます。
 この度の新刊『リバース』の場合、この石に相当するのは、本文中のある一文でした。ずばり、○○○○ミステリ。ネタバレになるので伏せていますが、 これまでに書いたことはなく、また、あまり読んだことのないテーマです。
 代表的な超有名作はあるけれど、違うアプローチの仕方があるのではないか。書けるかな? 書けたらおもしろいな。そんなふうに池いっぱいに波紋が広がり、ワクワクしてきたのだけど、じゃあ、どうすりゃいいんだ? となか なか物語の形を成してくれません。当たり前です。ミステリを読んでいて、おおっ、と叫びたくなってしまうあの瞬間を自分で考えなければならないのだから。そのため、執筆を開始するまでに、これまでの作品の時とは違う脳 の部位をたくさん使ったような気がします。
 騙すほうより、騙されりゃいい。シャ乱Qの「いいわけ」の歌詞が頭の中をぐるぐると駆け巡りました。ミステリは書くよりも、読む方がおもしろい。
 ……いやいやそんなことはありません。おそらく根が意地悪気質なのでしょう。どうやって騙そうかと、最初は頭を悩ませていても、時折、ニヤニヤしながら書いていたはずです。どうか、一人でも多くの人を驚かせることがで
 きますように。書き終えた今は、そう祈るのみです。
  ネタバレ以外で、今作品の大きな特徴となるのは、主人公が男性ということでしょうか。私の作品は女性の一人称というイメージを強く持たれていると思うのですが、サイン会などで読者の方から、次は男性視点で、とリクエス トされることがよくあります。加えて、日ごろ自分が抱いている、実は男性の方が陰湿な思いを抱え込んでいるのでは? という疑問に向かい合うにはこの作品がベストではないかと思ったからです。
 男の友情って美しいのか? 男同士で旅行する時ってどんな会話をするんだろう? 流行りのスイーツは食べるのか? などと思いを巡らせるだけでもとても楽しかった。男性読者に、あるある、と思っていただけるとこちらの 勝ちです。誰と勝負しているんだ?
 最後に、私はコーヒーが大好きです。昔からではなく、自宅の近所にコーヒー豆の専門店ができたのと同時期に、スーパーの福引でエスプレッソマシンが当たったことから、徐々に目覚めていきました。執筆中は一時間おきに飲 んでいて、もはや私にとってはガソリンのようなものです。いつかコーヒー好きの主人公を書いてみたいと願っていました。
 それを今作品に用いたのは、やはり主人公が男性だからではないかと思います。<湊かなえ>
 (講談社『ミステリーの館』2015年5月号より)

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2015年5月12日 (火)

文芸月評(読売新聞5月5日付)文化部 待田晋哉記者

 (一部抜粋)円城塔さん(42)の「プロローグ」(文学界昨年5月号~)は、その変な営みにとらわれる自分を見つめた奇妙な「私小説」だ。
 滝口悠生さん(32)の「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(新潮)は、三十路みそじを超えた男が14年前、2001年の大学1年の夏休み、原付きバイクで東北を北上した過去を思い出す場面から描き出す。高校の美術の非常勤講師、バイト先の大学の先輩らとの失恋の回想が続く。
 廣木隆一さん(61)の「彼女の人生は間違いじゃない」(文芸夏号)は原発事故後、仮設住宅に父と住む女性の話。仕事の休みのたび東京へバスで通い、風俗嬢になる女の心の空白を白いまま差し出した。
 星野智幸さん(49)の「呪文」(同)は薄気味悪い小説だ。廃業が相次ぎ、ネット上の嫌がらせに悩む駅前の小さな商店街で、若手事務局長が改革に立ち上がる。ドキュメンタリー番組「情熱大陸」にでも放送されそうな話かと思いきや、街の改革はとんでもない方向へ暴走する。
読売新聞文芸月評》2015年05月05日

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2015年5月11日 (月)

「まほろば賞」推薦候補作紹介から=外狩雅巳(投稿)

☆【三頭の悲しい虎が、小麦畑で小麦を食べる】辻村仁志作品・(空飛ぶ鯨15号)掲載=この長い題名はスペイン語で喋るボリヴィアの早口言葉の一つから取ったのだそうだ。
 大豆加工食品会社の社員である私・香川のボリヴィア出張三か月中のエピソードである。知り合った現地少年チコとの友情と彼の死が会社の業務を交えながら進んでゆく構成。
 少年に挑まれた早口言葉が効果的に使われている。仕事の説明の困難さも理解できた。ドライブに乗せた少年にシートベルトをさせた事が事故死の原因だとして悲しむ結末。
 夢で少年の顔をしたゲバラの死体を見た事が正夢だという挿入はどうかなとも感じた。年齢や人種や国籍をこえた友情物語が気持ち良く読めたのも私好みの作品でもあろう。
 個人的感傷だが半世紀前に革命の拡大を試みボリヴィアで戦死したゲバラの事が蘇った。
 ☆【ルーツ】三沢充男作品・(こみゅにてぃ92号)掲載。=この作品は一番判断に困った。緻密な記述とリアルな描写が無理筋の設定を超えている。
 これまでの四作からは専門知識の記述や込み入った筋回しに共感が薄かったのだ。小説は人物を描写するのか事件や事実を書くのかを迷わず読み込めたがここで困った。
 医学部教授で娘二人と妻の家庭も穏やかに過ごしてきた伊佐山和人に難題が降りかかる。
 三十年前の精子提供が引き起こす難題が話の中心である。その子が息子だと通告してきた。研修医の砂川郁夫は娘との交際も仕組んで認知を迫る。そこを丁寧に記述しているのだ。
 伊佐山の家庭生活もリアルな会話や進展で無理なく読ませる作品なのだ。しかし引っかかる。親子関係は情も絡むのに育ての歳月の無い二人の関係とは何なのか。
 精子提供は善意であり絶対に分からない仕組みなのにそこを突破して作品化している。設定のアイデア勝として賞賛したいが正直言って小説とは何かで混乱してしまった。
 ■関連情報《外狩雅巳のひろば

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2015年5月10日 (日)

連絡所の変更のお知らせ(同人誌受贈先変更)

 文芸同志会では、同人誌の受贈をいたたき、文芸情報の参考にさせていますが、このほど、その受付先を表題の「文芸交流会」事務局(外狩方)に変更いたしました。
 これまで代表者伊藤のフリーライター活動のなかで編集室として必要であった屋号の「響ルーム」の所在地を拠点にしておりましたが、この活動形態を変更し、事務所契約を解消したことによるものです。(5月8日付)
 今後は編集者・フリーライターとして活動のなかで、文芸同志会を運営していきます。文芸情報の交流会での活動のなかでの広く閲覧されることが、ふさわしいと考えております。
 なお「文芸交流会」は、町田市を集会拠点として、活動を広域化することを目指しており、外狩雅巳氏が事務局を担当しております。《参照:外狩雅巳のひろば》 文芸同志会はその趣旨に賛同共有するものです。(伊藤昭一)

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まほろば賞の選考規定について

 まほろば賞規定を読みますと《参照:まほろば賞規定》 「全国同人雑誌振興会選考委員会および文芸思潮編集部により」となっております。

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2015年5月 9日 (土)

「まほろば賞」推薦候補「新幹線の手紙」「地の来歴」紹介(投稿)

 外狩雅巳です。5月10日の「関東同人雑誌交流会合」で行われる「まほろば賞」関東候補の作品紹介を致します。候補は五作品です。既に雑誌「相模文芸」掲載作品は《外狩雅巳のひろば》で紹介済みです。二回に分けて掲載いたします。
 ☆佐々木欽三作【新幹線の手紙】(街道25号)掲載=優雅な退職高齢者の楽しくスリリングな体験のような感想の後で少し読み込みました。会話で進める文章は読みやすいが他人事のような出来過ぎた話の印象がある。
佐々木は友人の建設会社の顧問として余裕の老後である。年数回の通勤時の体験談。
 新幹線の座席で拾った筧えりの手紙からその友人の矢代萌との三人での交際談です。高齢女性からの交際申込み手紙には仕掛けがあるがそれでも楽しい事の連続です。高木は懸賞小説当選歴でゴーストライターも手掛けて来た書き手という設定です。で、二人の女性の自伝出版も依頼されたりと出来過ぎの筋書きが読みやすく進
む。裏も有りそうな予感のラストも楽しい事が起きそうだと結ぶ老人の幸福感で終わる。こういう人生もありかという感想でした。作者の幸福感が続く事を祈ります。
 ☆嶋津治夫作【地の来歴】(全作家97号)掲載=昭和四十年代関東平野での稲作の生産対策に関わった若き農林技師の回顧。と言う簡潔明瞭な該当号の編集後記があるので先ず引用させてもらいました。島村真一が佐原の県・総合地方事務所農林課勤務時代の一年間の記録です。香取郡等の地域農業の病害虫防除の業務実情報告が具体的に記述されている。
 上司の伊藤係長とのコンビで現場に入り農家との交流談を色々紹介している。地方農業行政の内情を詳しく専門的に紹介する誠実な時代報告書とも読めた。成田空港建設反対運動の初期も書き込まれ真面目な姿勢で農民を書いている。一年経過した春に伊藤係長の転勤話で締める島村青年の成長談として読んだ。
 ドラマ性よりも地域農民と農業政策の実情報告を重視した作品でもある。この地味な作品が候補になった事に興味を持った。


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2015年5月 8日 (金)

西日本文学展望「西日本新聞」15年04月29日朝刊長野秀樹氏

題「再出発」
和田信子さん「海の見える部屋」(「南風」37号、福岡市)、野見山潔子さん「坂の上の四十日」(「火山地帯」181号、鹿児島県鹿屋市)
「照葉樹」二期7号(福岡市)より水木怜さん「順平記・最終章『ゆき』」
「周炎」55号は山村律(山下敏克)さん追悼特集号。追悼文は岸原清行さん、八田昴さん、暮安翠さん、若杉妙さんら17人。辞世の句「コスモスに風を残して旅立てり」
文芸同人誌案内掲示板ひわき さんまとめ

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2015年5月 7日 (木)

文芸同人誌評「週刊読書人」(15年04月24日)白川正芳氏

「樹林」601号より日野範之「私の好きな詩、この一篇」
渡辺治虫「エウロパの海」(「天気図」13号、岩手県)、石峰意佐雄「俳句賞翫・補遺(「火山地帯」181号)、富田幸男「譲葉木(ゆずりは)と上椎葉ダムと私」(「九州文学」29号)
はまさきひろし「四つの詩篇」(季刊「まくた」287号)、岡本信也「デザイン生活手帖」(「象」81号)、蒔田時春「モンタナ・チャイニーズ」(「銀座線」20号)、加藤克信「超人拳能見」(「雑記林」19号)、花島真樹子「もう合鍵はいらない」(季刊「遠近」56号)
文芸同人誌案内掲示板ひわき さんまとめ

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2015年5月 6日 (水)

脱同人雑誌形態。文学フリマの要は見本誌コーナー

 文学フリマの百都市構想がはじまったが、そのことで市民文芸家の表現媒体がどのように変わるのか。それは見本誌コーナーに如実にあらわれる。そこで《見本誌コーナーに見る「第20回文フリ東京」の傾向》を出しました。そこには脱同人雑誌形態の様子が顕著。

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2015年5月 5日 (火)

第20回文学フリマ東京の風景から

 文芸同志会と「砂」がドッキングして第20回文学フリマ参加の風景を「文芸同志会のひろば」と「詩人回廊」に出しました。
 とうにかく」ブースでは山川豊太郎のコミックの解説が男女を問わずよく売れた。それぞれの漫画の愛読者たちが買っていく。「こういうの、読みたいのに、いくら探してもないですね」という。要するに人気漫画をデータベースにしているから、同じものを読んでいる人との対話や話題の延長を楽しみたいのだ。山川氏は赤毛のアンの解説追加をしないのか、と読者から言われたそうである。
 山川氏はそういう心理をついて、現代的人生論を盛り込んでいるのだ。それに対し「なぜ「文学」は人生に役立つのか」(伊藤昭一)は、菊池寛の作家凡庸論をデーターベースにしているが、そこそこ売れたのはさすがに文学フリマである。文学フリマの状況も刻々と変化しているが、そのキーポイントを発見しにくいので、説明が難しい。
 そこでなんとなく、それが理解できるような試行錯誤をしてみるので、実施したらそこをリンクして出します。困った末の単純な手である。

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2015年5月 4日 (月)

第二十回文学フリマ東京を5月4日に開催

 600以上の出店者が東京流通センターに集結!「第二十回文学フリマ東京 開催情報
 文芸同志会もメインの販売物は前回とほぼ同様です。三田文学作家・桂城和子氏の参加同人誌「グループ桂」が新刊です。《参照:「グループ桂のひろば
《参照:文芸同志会

☆第二十回文学フリマ東京情報
開催日 2015年5月4日(月祝)
会場 東京流通センター 第二展示場
※入場無料
※当日会場にて出店者カタログを無料配布!(なくなり次第終了)
文学フリマWebカタログ】にて5/4開催「第二十回文学フリマ東京」の出店者情報を掲載。
■来場者のみなさまは……
1. 出店者のサイトを巡回せずとも、事前に販売・配布物の情報を確認できます
2. 気になるブースを事前に「気になる!」登録できます
3. 文学フリマ開催中にもモバイル端末から「気になる!」ブースを確認したり
「訪問済」や「あとで」の登録ができます。
4. 配置図を 「eventmesh」 ですぐに確認できます!

「eventmesh」 ( http://eventmesh.net/ ) とも連携しています。
Webカタログ・eventmesh 間、相互でリンクが設定されており、簡単に行き来が
できるようになっています。

「eventmesh」は、即売会や展示会など、さまざまなイベントに対応した、
ソーシャル・イベントマップです。配置図の閲覧はもちろんのこと、
配置図上のブース番号をクリックすると出店者のカタログ情報が表示されます。
これによりブース配置図から直感的な操作で文学フリマの出店者情報を
閲覧することができます。ぜひお役立てください!

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■ 『文学フリマガイドブック 二〇一五年春(通算第7号)』販売情報
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「文学フリマガイドブック」とは過去の文学フリマにおいて販売された同人誌のなかで
有志の読者によって推薦されたものを紹介する本です。
5/4「第二十回文学フリマ」でガイドブックの新刊が販売されます!
文学フリマ巡りの一助として是非お買い求めください。
推薦作を販売しているサークルスペースを記したマップも配布いたします。

【文学フリマガイドブック二〇一五年春(通算第七号)】
◆販売価格
・200円
◆販売場所
・事務局本部(1Fロビー)
・イ-03 文学フリマガイドブック

※そのほか以下のサークル様にも委託させていただいております。
・A-03 大坂文庫
・B-63~64 CheChe's Atelier
・C-05 DAISY CHAIN 製作委員会
・D-01 史文庫~ふひとふみくら~
・D-63 淡く眠る猫
・E-06 犬尾春陽
・F-19 白昼社
・イ-29 佐藤

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2015年5月 3日 (日)

同人雑誌評「図書新聞」(15年04月11日)志村有弘氏

 評者◆志村有弘=豊かな構想の時代小説、人の世の哀しみを綴る文学――貧しくも誠実に生きる板木彫師を描く本興寺更の名人芸「彫師」(『文芸中部』)、仇討に一生を捧げた男を視点とする佐多玲の「仇討禁止令」(『渤海』)、牛島富美二の相思相愛の若者の心中譚「翻案 秋色柳落葉―賀美郡柳沢心中事件―」(『仙台文学』)
《対象同人誌>
 萩田峰旭「火の煙」(R&W第17号)R&W 〒480‐1147長久手市市が洞一の三〇三 渡辺方
 舩津弘繁「八俣大蛇―現代誤訳我流古事記―」(猿第75号)猿 〒376‐0102みどり市大間々町桐原一六〇 森方
 牛島富美二「翻案 秋色柳落葉―賀美郡柳沢心中事件―」(仙台文学第85号)仙台文学 〒981‐3102仙台市泉区向陽台四の三の二〇 牛島方
 源つぐみ「古井戸」(函館文学学校作品2015)函館文学学校 〒041‐0801函館市桔梗町五の一二の五 大塚方
  興寺更「彫師」(文芸中部第98号)文芸中部 〒477‐0032東海市加木屋町泡池一一の三一八 三田村方
 佐多玲「仇討禁止令」(渤海第69号)渤海 〒930‐0916富山市向新庄町二の四の五 杉田方
 夏当紀子「波間」(飢餓祭第40号)飢餓祭 〒657―0855神戸市灘区摩耶海岸通二の三の一の五〇八 田中方
 その他-- 
《参照: 「図書新聞」2015年04月11日

▼歌と観照 〒161‐0031新宿区西落合一の三〇の二〇の一〇一 歌と観照社
▼黄色い潜水艦 〒630‐8282奈良市南半田西町十八の二 宇多方
▼驅動 〒143‐0024大田区中央三の三〇の七の五〇一 飯島方 驅動社
▼新アララギ 〒101‐0042千代田区神田東松下町一九 興亜第一ビル4F 新アララギ発行所
▼現代短歌 〒113‐0033文京区本郷一の三五の二六 現代短歌社
▼詩と眞實 〒862‐0963熊本市南区出仲間四の一四の一 今村方
▼綱手 〒662‐0098西宮市毘沙門町六の二四 井上方
▼塔 〒606‐8002京都市左京区山端大城田町二〇の六〇六 吉川方
 「現代短歌」(第三巻第三号)が、筑豊炭坑の歌人・山本詞(昭和五年~三十七年)の歌と生涯。「落盤に埋れて死にし今日の坑夫空弁当をひとつ残して」・「この疲れ語りたき妻など吾になし坑出でて驟雨に打たせ洗ふ半裸を」という哀切極まりない歌。黒瀬珂瀾と松井義弘の山本についての解説も貴重。そして視力障害であるのか苅谷君代の「握手するやうに白杖持つ右手「よろしく」なんてつぶやいてみる」(塔第721号)、阪神・淡路大震災を念頭に正田益嗣の「病院のベッドに伏して助けてと妻が叫びゐし声いまも耳を離れず」(新アララギ第206号)も、やりきれない哀しさ・寂寥を感じる。しかし、それでも人は生き抜くべきだ。
 詩では奥西まゆみの「久坂葉子のいた神戸」(驅動第74号)が、久坂葉子の人生と作品を踏まえて、「あなたは/今日、ふたたび/うまれた。」と綴る。 「歌と観照」第952号が和田親子、「黄色い潜水艦」第61号が太田順三、「詩と眞實」第788号が金子靖、「綱手」第320号が田井安曇、「塔」第721号が二上令信・初子夫妻の追悼号(含訃報)。

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2015年5月 2日 (土)

記憶の真実と詩的真実の「外狩雅巳の世界」シリーズ

 東京新聞の文芸時評が5月分から沼野充義氏から佐々木敦氏にかわった。佐々木氏の評のなかに滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス・エキスペリエンス」(「新潮」)についてがある。
 それによると、作品は2015年の時点から時間軸があちこち飛び、あからさまな省略や欠落もある。まるでいまらう目の前にあるかのように克明に覚えていることなど、「つまり思い出すとはどういう行為なのかが、この小説のテーマである」としている。
 私は、あれまあと、驚いた。というのは、現在「外狩り雅巳の世界2015」という年度シリーズの3年目のものを編集しているからだ。そこでは、「詩人回廊」サイト「外狩雅巳の庭」に掲載された自分説話を、文学作品化することを1年前から考えていて、やっとその編集にとりかかっているからである。
 これは、外狩雅巳の記憶が、幾度も繰り返され、重複して、言葉として飛び出し、そこに据え置かれるのだ。
 かれの場合、ですます調である。これも面白く、そのままつかえるものだが、それには多少編集者として付け加えることが必要になるように感じた。
 しかし、それでは原作者の意向を壊すであろうと思い、ですます調を、たんにである調に変えることで、純原作品とできると考えた。
 そしてタイトルは「外狩雅巳の手記」とした。本当は、小説の一種であり、文学作品であるのだが、作者の同人誌仲間たちは、そうは思わないであろうから、「手記」とすれば作文の変形として受け取るのではなかろうかという配慮である。ドストエフスキーの「地下生活者の手記」というのもあるし。
 基本的には、人間の記憶は、そのまっま事実とは限らない。記憶や経験のなかでの真実なのである。文学の基本は、経験である。詩もまた経験を言葉に置いたものである。現代詩は、個人的な特殊経験をイメージ化したりするので、他者には難解になる。それが、ありもしない幻影をイメージすれば詩になると考える傾向を生み、詩を堕落させた要因とも思える。しかし、基本は個人の経験の生んだイメージの文字化、言葉化が詩的作品になる。わけのわからないことを言えば、詩になると誤解しているデタラメ派詩人が多い。それはそれなりに言葉の働きで面白いが、まあ、詩人もどきでしょうね。
 外狩作品の特徴は記憶の真実が強く太く表現されるので、詩的表現に近い。
 いずれにしても、外狩雅巳世界2013~2015の3冊は、編集者があってできたもので、(たとえヘボ編集者でも)それは作品に、独自の意味を付加する効果があるのです。興味のあるひとは、「外狩雅巳のひろば」の下部に住所がありますので、申し込んでみてください。
 ちなみに文芸同志会の出版物は、ネットサイト文学フリマでぼちぼち安定的に売れています。フリマの出展料ぐらいは上回り、その他口コミ会員の販売協力で年間2~3万円ぐらいののもので、運営費にあてています。

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2015年5月 1日 (金)

文芸時評(東京新聞4月30日)佐々木敦氏

 佐々木敦氏は批評家・早稲田大学学術院教授。
多和田葉子訳「変身」硬質な言葉選び
滝口悠生「ジミ・ヘンドリスク」増幅する思い出
≪対象作品≫
滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス・エスクペリエンス」(「新潮」)/多和田葉子訳「変身」(「すばる」)/星野智幸「呪文」(「文藝」)。

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