文芸同人誌「マスト」第34号(尼崎市)
本誌が発行されてから三月も経ってしまっている。遅まきながら、順番に後書きまで全部読み終えた。地下鉄に乗っていたので、読み終えたという達成感のあと、乗り換え駅を乗り越してしまったことが判ったときの落胆と疲労感は、なんとも言えないものがあった。
【「ミセレ―レ 憐れみたまえ」西野小枝子】
主人公の僕は、失業をしていて、マンション管理の派遣パートタイムをしてた頃の、精神と生活の放浪記である。同居人の彼女がいて、パートで収入を得ているらしく、低収入でも過ごせる余裕があることがわかる。失業の状態を自由な猶予期間と考えている。「ハンナ・アーレント」という映画をみたり、薬物中毒になりかけの若者と知り合ったり、その見聞を記す。話はどこまでも流していけば続く手法。状況説明がわかるので、読みやすく面白い。かつてのビート族のような、現代放浪息子物語の形式。出会った出来ごと人々との交流から、それぞれの生活ぶりを問い尋ねることができる。そのためいくらでも長く書ける。非常に書きやすく、読みやすい手法で、終わりどころのないのが特徴。そうなると、作者センスと世界観が魅力的であることが求められるであろう。その形式のサンプルテキストとして最適のように思う。良し悪しを問われれば、良い方にいれる。
【小説「シンプル イズ ベスト」山脇真紀】
太極拳の体験から、有段者になるのにどのような苦楽があるかを事細かに記す。この形式は、学校にある作文の、体験したことを手順に記し、終わりは「と、思いました」というパターン。ここでは「そうか、むずかしい太極拳も楽しみながらリラックスしてやっていくことにしようと思えた。」で、ぴったり形式に収まっている。現在読んでいる勝又浩著「私小説千年史」(勉誠出版)によると、日本人の小説のエキスは平安時代から盛んになった日記だそうで、たしかこれは日記小説。面白さはどうかというと、これだけ詳しく太極拳について知ることができれば、面白いことは確かである。
【紀行文「常念岳」大家翆娥】
常念岳という山にに登った体験記で、形式は山脇さんと同じ。よく記憶したというか、記録したというか。その密度の濃さに驚く。書いていて楽しく充実していたに違いない。読んで面白いかと言えば、面白い。
【「湖の妖精」眉山葉子】
エリカという、情熱に満ちた女性が、妻子持ちの男性と恋をする。てっきり離婚して結婚してもらえると思っていたのに、男は妻が妊娠したので、結婚できないと言いだした。そこで、愛に命をかけるエリカの波乱がはじまる。エリカの情念と肌合いの熱さを描いて、飽きさせない。面白くて楽しめる小説。大衆小説作家として有望な才気を感じさせる。これだけの情感を活かせる才気があるのだから、ミステリー小説を書いて公募に応じるのも、一つの道かもしれない。時流に合えばの話だが。
【「鈎の陣」松尾靖子】
女性の境遇で大成金になり、その資金を有効に活かした女傑、日野富子を「私」としてその内面から描こうとしたものらしい。歴史小説である。お金は何時の時代も大事である。富子はうまく使って世の中を変えた、という説もあるが、ここでは反省的な感情が描かれている。
発行所=〒660-0803尼崎長洲本通1‐6‐18‐208、松尾方。「マストの会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
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