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2015年4月 4日 (土)

文芸交流会3月会合・矢嶋直武「犬と鈴と老人」から

 町田文学館で読書会を行った。はじめて行った場所だったが文化的に良い施設である。読む作品は矢嶋直武さんの「犬と鈴と老人」(「民主文学」2015年4月号掲載)。大川口好道(「文芸多摩」編集者)さんの細部にわたる解説レジメがあったので、話がしやすかった。《参照:外狩雅巳のひろば
 自分はこの小説の形式が、作者が無意識か、意識的かはともかく、ある古典文学のスタイルを踏襲していることを強調して話した。
 この小説の話の手順は、ぼくというサラリーマンが、公園で老人と知り合うことから始まる。ぼくが中国の大連に旅行に行くことを話すと、その老人、高村さんも大連に縁があることがわかる。高村さんは、ぼくの父親に似たような雰囲気で、親しくなっていくなかで、彼が支援していた張さんとう中国人留学生がいて、彼女が来日してどのような境遇にあったかを話す。
 小説のテーマは、この張さんの運命についてである。日本のカルチャーが好きで、日本に留学していた張さん。当初は張り切っていたのが、日本での違和感、母国の事情など境遇の変化で、環境不適応症になり、帰国してしまう事情を描いたもの。
 通常は張さんという学生の立場から直接的に描く手法が一般的なのだが、本編では、語り手のぼくは、張さんとは面識がなく、会っていない。たまたま大連に縁があって張さんの日本留学を支援した、高村さんか彼女の境遇を聞く、という間接的な伝聞の手法をとる。それなのに、張さんの苦悩を強く身に迫らせ、考えさせるのである。どの国の人であろうと、苦しみは同じという印象を強める。
 自分は、これが映画「地獄の黙示録」の原作となったジョセフ・コンラッドの「闇の奥」に使われた、間接表現法と共通する手法であることを説明した。
 「闇の奥」では、語り手はマーローという船乗りなのであるが、その話を聞いた人が、マーローの話を伝えるという形式である。彼は自分の体験を見聞した通りに語る脇役である。マーローは放浪する語り部で、定住しない。その場その場の出来事のなかに問題点を指摘して、また別の体験を語るーーコンラッドはこうした手法を確立した。村上春樹の小説でも、主人公はテーマごとに旅をするところがある。出かけて行くことで、物語をし、所定に場所に戻るという気配をもっている。
 自分は小説に反映するためには、作者がすべてを語ると、どうしても範囲が限定的であり、単一視線になってしまう。世代によって人間の世界が変わって見える現代は、様々な人の視点からそれを見る手法がないものか、と思案し古典作家であるコンラッドに注目していたのである。
 それはともかく、「犬と鈴と老人」の作者がこのような形式を実行し、しかも成果を上げているのは、かなり文学的な造詣の深さを感じると、話したのであった。

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