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2015年3月29日 (日)

「批評メディア論」大澤聡・近畿大講師

人物中心思考は、無名の人々の議論をつかめず、同じ議論の繰り返しになりがち。日本の論壇が、文士をスターにして消費する文壇をモデルに成立したからで、日本特有の病だという。
 大澤氏はさらに、「同じシステムを後生大事に80年以上使い続けたら、制度疲労してくるのは当たり前」として、活字メディアの苦境を招いた一因でもあると指摘する。「これからは、専門外の論者や新しい論者を、積極的に登用し、論理で勝負するような言論空間も確保しないと、言論が危機に陥った時に困るのでは」
 その一方で、批評の歴史には、現状変革につながるヒントもある。「当時の雑誌や新聞には、いい意味でのいい加減さや開き直りがあった」ことだ。連載が突然終わったり、記事の形式やタイトルが急に変わったり、“トライ&エラー”が常に繰り返されていた。
読売新聞3月27日《「批評メディ論」大澤聡・近畿大講師

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コメント

戦後から昭和四十年代までは、文芸批評も光ってました。
それぞれの批評家の批評の文体が月並みではなく個性がありましたね。

着眼からして違っていた。最近の文芸批評は、文体からして皆同じ色合いで、まるで聴きなれた演歌のメロディーを聴くような平凡な感じがしますね。非費用かに独自の個性がない。これも、時代なんですかね。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年4月 2日 (木) 13時04分

石原さんの文芸誌の作品寸評は、字数制限にもよるだろうが、作者の意図などに踏み込まず、筋書き紹介のみ披瀝の後、印象批評に終始しているだけのようで、どうも感心しません。新人の作品なんですから、欠点のみ紹介することはないと思いますがね。

駄目な作品と思ったなら、紹介しなければ良いと思いますがね。批評も批評されるもの。批評の文章も月並みのように見えて切れがないように見えるのですが・・・気合を入れてやっていただきたい。(゚ー゚)

こんな意見は、生意気で駄目ですか?

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年4月 2日 (木) 12時56分

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