4月号 図書館という「鏡」 早稲田大学教授・石原千秋
酉島伝法「三十八度通り」(群像)は奇妙な小説である。どうやら近未来で、町ではヘンなことばかりが起こる。実は、「私」は38度の「微熱」に見舞われているのだが、38度が政治的な数字であることは冒頭から明らかにされている。ところが、末尾がこうなのだ。「『おい、聞いたか。平熱が三十八℃に引き上げられたって』/誰かがそう話すのを聞いた。」それならば、政治的な38度も無意味になる。あるいは、政治的な38度が当たり前になる。どちらにしても人を食ったような末尾で、これこそ文学の仕事である。
栗田有起「抱卵期」(文学界)は、大学受験を控えた女性が、他人の卵子を子宮に入れて育てる仕事を請け負うことになる。この設定に生殖技術へのなにがしかの批判が込められていることはわかるが、これだけ特異な設定だとあとの展開が苦しいだろうなあと思いながら読み進めると、案の定、設定以上のものは何も出てこない。羊頭狗肉である。上田岳弘「私の恋人」(新潮)は、何人もの「私」が人類の歴史を横断する。しかし、末尾がいかにも「小説してます」といった感じのオープンエンディングで興ざめ。これは尻すぼみと言うべきか。小説を終えるのは難しいものだとつくづく思った。《産経新聞:4月号 図書館という「鏡」 早稲田大学教授・石原千秋》
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