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2015年1月24日 (土)

文芸的であることと日常生活記録との違い

 桂城和子氏の作品は、平凡な日常生活のなかの異常性というか、作者が非日常性を作り上げることによって、成立していることが多い。多彩な生活様式から、それを選び取る感性がある。記憶ちがいでなければ、かつて「北日本文学賞」を受賞した実績をもつ。その、なかなかだなと思わせる文章が「待つ女」という作品にも出ている。結局は、それが文学的文章表現力で、<「グループ桂」のひろば>に引用しているような、「三田文学」119号の「同人誌評」の対象になったのだと思う。わかりにくい微妙なところを描けるのである。
 この同人誌には、北一郎「はこべの季節」が掲載されているが、これは過去の一時代の若者の社会人生活を描いたもので、鋭い感性による文章に縁遠いもので、ほとんど文芸的な価値を感じさせない。表現も19世紀的である。これはそれだけのことで、平俗的で、感性によらないから、誰にでも理解できる。ある時代の形を標準サンプル的に描いたという記述として自分ならではのものと本人は自己満足している。歴史的に過ぎるのではあるが。
 文芸性のものについては、日常性のなかで、感性をもって描く文芸的な文章を書くことができるのは才能である。ただ、それを安定的に実行することは難しい。時代環境に合わせる必要性から、当たりはずれがある。それが弱点といえば弱点であろう。

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