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2015年1月22日 (木)

1月の町田文芸交流会は外狩・小野・伊藤の輪談になる

 1月19日に町田公民館での文芸交流会に出席した。朝から頭痛がひどかったが、引きこもりになっても仕方がないので、頓服を飲んで出かけた。胸がむかつくので水をのんで、胃壁を洗うように仕向ける。
 会合は、体調がすぐれない人がでているようで、外狩氏と小野友貴枝氏との談話が主であった。たまたま外狩雅巳氏が「相模文芸」29号にエッセイ「世間に負けた」を発表しているので、その感想を話し合った。一読して、過去の職業遍歴のある職場体験を、思いつくままを書き置いたメモノートを文章化したもの。
 思い浮かぶイメージを文章化するのには、いわゆる「意識の流れ」を書きとめる手法があるが、それにはそれなりの文体が必要である。本作はまるでプロレタリア詩のように、書いている間に頭に浮かんだ出来ごとを、平俗文体で説明なしで、いきなり持ち出す。
 トルコに行く準備で多忙のせいもあるであろうが、作者の創作の方向の迷いがそのまま出た未完成作品であるという印象を述べた。過去の体験を書く手法は叙事詩と同じで、行替えがない散文なのである。行替えがあれば、この関係なさそうな文節と文節の間に何があるのだろうと、読者は時間をかけて考える。想像力を働かせてもらう機能がある。
 しかし、小説では本筋でなくても、説明をしないと次のところに話題が持っていけない面倒な作業がある。書いている方は退屈で面倒な作業でも、読者のために説明しなければならない。いわゆる「橋」をかける作業である。自分が今、書きたところを書いているのか、「橋」を書いているのかを意識することで、読者を考えていない小説の手抜きパターンを避けることができる、というような話をした。
 小野さんとは、高倉健のイメージに対する評の話から、寅さんの映画「男がつらいよ」にかつて北一郎が評論で、寅さんを批判していることに話題が移った。
 べつに批判しているわけでなく、寅さんだけが、親戚に迷惑をかけていいのか。自分の身内に寅さんが実在したら不愉快になって、笑えない話が基本になっているという説明をした。人間の自由というのは、自分の行為というのを、すべての人がやっても問題がないという範囲でしか認められないーーという哲学的定説の話になった。寅さんは真面目な人がやろうとしてできないことをやって認められている、甘えを懐かしむ人の心に食い込んだものであるという見方を話した。
関連情報<参照:外狩雅巳のひろば》 

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