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2014年12月 6日 (土)

独白体としての読み物の内側(外狩雅巳の庭から)  

 このところ「外狩雅巳の庭」では短いエッセイがまとめられています。けっこう読者が出ています。作者はこれを同人誌に投稿するようです。同人雑誌に掲載されたものを読むのは顔の見える読者です。それよりこのサイトで読む読者のほうが多いでしょうが、それは顔の見えない読者で黙ったままです。現在はスマホなどのネットサイトで読者投稿欄をつくり、有料で読むものがあるそうです。そのベストセラーはだいたい自分の私生活をくわしく述べた日記ものが多いといいます。おそらく私小説愛好者のような読者は、どこにでもいるのでしょう。これを普通人がやるのには、それなりに書き方に経験と工夫がいります。ぶっつけで書いて読者を獲得できるのは、それだけでひとつの才能だと思います。たとえば、外狩氏のような文章を書きたいと思っても、その技術を自分が手に入れることはできません。お金をいくら出してもその技術は手に入りません。以前、文芸同志会に億の資産ができたので、のんびりテレビドラマを観て過ごしている。テレビのミステリードラマのようなものなら自分にも書ける気がするといってきた人がいました。いいですねと、そこで、自分の作品や仲間の作品を見本に送りました。すると、この人たちの書く力と同じ技術を会得できない。その技術にはその人が億を貯めたと同じか、それ以上の価値が入っている―ーといって、入会をやめる手紙がきたものです。アパート住まいで金のない自分も、そうなのか、と改めて考えさせられました。わたしにとって外部の視線こそが、それがなんであるかを、示して学ばせてくれるのです。

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