« 年の暮れ「町田文芸交流会」に参加して | トップページ | 文芸時評12月(東京新聞12月25日)沼野充義氏 »

2014年12月25日 (木)

文芸同人誌「季刊遠近」第55号(川崎市)

【「森の奥」難波田節子】
 語り手の麻子が、安岡弥生とその夫と知り合う。弥生は絵描きで、夫は経営コンサルタントをしている。弥生はアーチストらしく絵画の世界では独身を装っているようだ。芸術家の弥生の世話のために、夫は仕事をやめているらしい。絵描きの弥生が、自分の絵画の世界を追求いるうちに、生活上の認知力を失っていくまでを麻子が目撃していく。
 森の奥とは、弥生が追求した精神の暗黒面を示した絵画のことだが、作者は弥生が森の奥に何を見ていたかは追求しない。作者の筆は、絵画の芸術的世界を身近に置きながら、登場人物の親の面倒を如何に見るかという、俗世間的な世界に表現力発揮する。その意味で、絵画作品の印象に筆を及ばせながら、芸術と生活の対立点を描くという素材にしてテーマ性を脇に置いてしまった。弥生の不調和な精神を手の届かない世界と見放して、生活的な調和の視線に逃げてしまっているように思える。作品の文学性を問えば「森の奥」の入り口だけの作品になってしまった。
【「最後の合戦」逆井三三】
 前54号の「私の平家物語」では、現代人の歴史を研究する立場から、分かりやすさ納得しやすさを重視する視線で、ざっくりとした歴史観の横行する様を皮肉に描いていたように思える。現代の合理性と歴史的事実の解釈の手法に、延長線にあるものに興味をもったが、今回は、真田一族のたどった宿命を、歴史的な事実を現代的な解釈で語るという、新型の歴史時代小説になっている。関心が多様化し、感性の分散化する現代人には、こうした書き方も有効であろうとは思う。
 同じ作者らしき(三)という人が「編集後記」を書いている。楽して金を儲ける手段としての文学の位置づけや、商品とするにしては、生産効率の悪さなど、プロの作家の見方を紹介している。そういう問題に関心を向けるのは如何にも、さっくりとした大まかな把握による皮肉な見方を好む作者らしさが出ている。
 俗世間を渡るには、ものごとに深くこだわらない方が良い。金儲けもしかり。禅坊主もしかり。しかし、悲しいかな、多くの人間は、ものこだわらずに生きられる存在に、出来ていない。そこに表現芸術が存在する意味があるので、そのこだわりがナルシズムやペシミズム、オポチュニズムとして表現される。そこを変だと思わずに共感を得る人が芸術の鑑賞者になるのである。文学作品を通俗商品と混同して、金儲けや出世の手段でしか見ないのもナルシズムの変形であろう。裏読みの(三)氏の論理をまた裏返すとそうなるのではないだろうか。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、永井方。「遠近の会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎

|

« 年の暮れ「町田文芸交流会」に参加して | トップページ | 文芸時評12月(東京新聞12月25日)沼野充義氏 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 年の暮れ「町田文芸交流会」に参加して | トップページ | 文芸時評12月(東京新聞12月25日)沼野充義氏 »