外狩雅巳「足払い」の作品エネルギーと完成度
「詩人回廊」の肉体が語る小説「足払い」(外狩雅巳)論(5・完)北一郎では、その特徴を述べているが、当初は短いものだから、言葉によって肉体のエネルギーが出ているだけであるが、短いからそれだけでいいじゃないか、という感想しかなかった。それが作者より評論をできないか、という呼びかけがあって、ちょっと困った。しかし、困ることで何か普段は出ない知恵がでるかもと、引き受けた。実際にやってみると困った状態そのままで、不出来である。
これを評しながら別のことも思った。なんとなく相馬が可哀想である。みじめに自分を見つめる想念が個性のように描かれているのはなぜだろう。おじさん風の容ぼうに、彼女にも見捨てられる。本来の柔道物は姿三四郎のように、強く、悪を憎み、正義の味方が主人公であるのに、作者は、相馬にルール違反をさせる。反社会的な行為をさせる。それだから文学なのだ、と言ってしまえばそれまでだが、何か敵のはっきしない時代への苛立ちが読み取れる。
この世界、白黒がはっきりしない。芸能ニュースなどでも、昨日のヒーローが、次の日はダークな側面が明らかにされる。虐げられた労働者であるはずのものが、勤める会社の株を持たされたりする。労働者なのか資本家なのか。人間はグレーゾーンの善悪の両面をもっている。善人か悪人か、はっきり分類できないわかりにくい存在になっている。ところが暴力は、強力な破壊者が物事を決める。すっきりはっきりする。
文学的には、ドストエフスキーなどは、複雑な心理を描くが、同時に暴力をそこにいれることで、なんとなくわかった気にさせるところがある。ただ、生活に忙しくなった大衆は、わかりやすい断定的な見方を求める。そこから距離を置くところに文学の役割があるような気がする。
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