印象批評を超えて書き手の姿勢を読むことの意義=外狩雅巳
文芸同志会に入会した為に伊藤昭一代表の作品評が多数貰えるようになった。
穂高健一氏の「ワールド」サイトでの掲載にも尽力してくれた。さらにその作品評も貰えた。
文芸同志会通信11月9日付けの「足払い」の完成度という見解に注目した。
伊藤氏は作品に寄り添い主人公の人間性やその苦悩をしっかり読んだ。
冴えない叔父さん顔の主人公の行き場の無い怒りを時代性と読んだ。
敵のはっきりとしない今の時代を書いた作品と理解してくれた。
このテーマで以前「悔いなき青春」という作品を書いた事がある。
虐げられた丁稚奉公時代を回想した作品で短編集に入れて知人達に送った。
高岡啓次郎氏が今回の伊藤氏と似た感想を「関東同人誌掲示板」で書いた。
同氏は「私が殺した男と女」「オーバーラン」「血を売る」等も評してくれた。
いつも現代への苛立ちを抱え何度か作品化への試みを行い歳月を費やした。
同志会に入会しサイトで自説を書く事も出来るようになった事も嬉しい。
そして、伊藤代表との議論を掲載し合う事で張り合いも持てた。
文芸同人誌に掲載しても合評会でここまで読んで評してははもらえない。
「この路地抜けられます」「外坪のるつぼ」「俺の39才」「いずみ野物語」。
作者の深層は読み解いては貰えず表層での印象批評しか語られなかった。
伊藤氏は多くの同人誌評を書きながら文学を語って来た。
そして、遂に私の作品姿勢を読み解いてくれた。感謝している。
《参照:肉体が語る小説「足払い」(外狩雅巳)論(5・完) 北一郎》
| 固定リンク
コメント