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2014年11月29日 (土)

同人誌「淡路島文学」第10号(兵庫県洲本市)

 本誌は7年かけて10号に至ったという。各作品の概要は、北原文夫氏が編集後記にまとめられている。企画として、他の同人雑誌作家たちの本誌に対する寄稿が掲載されている。よき理解者を得てこそ、文芸同人雑誌が文芸文化を形成していることがわかる。
【「無明の嘆き」樫本義照】
 社会福祉会館の管理運営をする立場から、日本の介護制度を通して、子供たちに見捨てられた親の末期の数々の事例を挙げる。また、子供が老いても親の面倒を見て独身を通せば、親は子供の老い先を周りに託していく姿もある。親の年金を勝手に使うが面倒を見ない、動物化した人間といえば、動物に失礼かもしれない姿を告発。日本が無明の闇に向かうという締めくくりの言葉は重い。かつては貧しさを耐えるための人間関係が、美徳を支えてきた。お婆捨て山など、昔から人間も獣と大差ない存在としての一面はある感想も出る。日本人の資質が変わることの退廃と哀れさを感じさせる。
【「離れ座敷でみる夢」宇津木洋】
 ぼくの日常生活のなかでの意識の流れを題材に、少年時代からの記憶をたどって語る。作者は以前からこの作業に挑戦しているようだ。少年時代にはウサギ、ヤギ、アヒルなど家で飼っていた。農業生活中心の当時と現在に至る時代の変遷を具体的に語る。この記憶をたどって記す作業に、あれは何であったのかという問いを含んでいる。そこに、いうに言えない何かがあると考え、その何かに迫ろうと試みている。大正末期の広津和郎は、「散文芸術」として、小説の「芸術」性よりも「近代の散文芸術というものは、自己の生活とその周囲に関心を持たずに生きられないところから生まれたものであり、それゆえに我々に呼びかける価値をもっている」とした。
 現代の人間が文明の進歩と同時に意識の流れの多様さについていけず、単純な生物化、動物化の非文学化する生活。「散文芸術」を再検討する価値があるのではないか。そのような視点でも読める作品である。
【「五月の風」北原文夫】
 これはまったくの私小説物である。兼業農家として生活をすることがままならず、職業についてきたことから、趣味化した農作業の風光と愛着を語る。筋のない話。素晴らしき日常か、その未完成感との葛藤なのか。この作品もまた、前述した散文芸術への道をどう切り開くかの課題に向かっているように思える。共通するのは、生きることの実感と意味づけをどの角度から見て表現するか、であろう。その探究にまだ先は長そうである  
発行所=〒656―0016兵庫県洲本市下内膳272-2、北原方。淡路島文学同人会。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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