文芸時評・東京新聞(9月30日)沼野充義氏
田中慎也「宰相A」戦争続く異世界描く
古川日出男「鯨や東京や三千の修羅や」被ばくの地の未来
≪対象作品≫
田中慎也「宰相A」(「新潮」))/古川日出男「鯨や東京や三千の修羅や」(「すばる」)/深堀骨「二つの短篇」―葡匐前進―鈴木電気店繁盛記(「群像」)/芝夏子「高さについて」(「文学界」)/ファム・ティ・ホアイ「ハノイの文士、AK先生の物語」(抄)野平宗弘・訳(「すばる」)。
田中慎也「宰相A」戦争続く異世界描く
古川日出男「鯨や東京や三千の修羅や」被ばくの地の未来
≪対象作品≫
田中慎也「宰相A」(「新潮」))/古川日出男「鯨や東京や三千の修羅や」(「すばる」)/深堀骨「二つの短篇」―葡匐前進―鈴木電気店繁盛記(「群像」)/芝夏子「高さについて」(「文学界」)/ファム・ティ・ホアイ「ハノイの文士、AK先生の物語」(抄)野平宗弘・訳(「すばる」)。
【「トライアングル」冬場煬子】
家族の一時代の物語である。人間の存在感を、恋愛でもなく、職場でもでなく、家族構造のなかで描いている。視点を3人に分けて「ヤッチン」という精神に変調をきたす二男、「与志子」という母親、家の主婦。「さくら」という家の娘。
ちょっと関係のわかりにくいところがあるが、少ない紙数で家族関係を厚みをもたせるには止むをえないであろう。それなりに通俗的に読み流すことを防いでいる。ある家庭の特有の色合をつくる人間像を描く。家族を支える経済環境が書かれているので、存在感を生んでいる。
人間の家族構造の中心は、子供を産む母親であり、家を出て他者とつながり子供を産んで別の家族をつくる娘である。このことによって家族と家族の関係をつなげる。「さくら」の章で、その構造の中にある人間のエゴを表現している。浮き彫りにされるのは、父親と息子という男のエゴに対応する女性のエゴである。
たまたま、現在テレビニュースでヒラリー・クリントンの孫が誕生したと、ニューヨークタイムスがトップで報道したことを伝えている。国のリーダー候補の家族構成が人々の関心を引き付けるのである。
マルクス主義思想が、社会的階級対立で捉えた人間のエゴや欲望の根源。それを修正する意味で、人間性を家族関係などに置く心理構造に注目した思想が、構造主義といわれているようだ。文学のひとつの方向性もそこ属するものがあるような気がする。文芸評論もエゴの追求が終わり、エゴの変容ぶりに向かっていくのかも知れない。
〒567-0064大阪府茨木市上野町21番9号、大原方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
小説「28歳の頃」(外狩雅巳)の評論「~~読み方・抄録」を北一郎「詩人回廊」での連載。ここでは、作品の時代が日本経済が峠を越えて、次の段階に移ったことで、作者の感性と時代の関係を記した。映画の寅さんシリーズはいまでも人気があるようだ。
ここでは、なぜ寅さんだけが、周囲を騒がせ、身内に迷惑をかけるような暮らしが許されるのか。なぜ、みんなが寅さんのような生活をしないのか、という側面から社会と関連づける話をした。同時に現在の経済成長しない資本主義社会に入った現状と過去のちがいを解説しようとしたが、未達のままになっている。
出版社のKAカDOドKAカWAは、「コミックウォーカー」と名付けたウェブサイトを3月にスタートさせた。「新世紀エヴァンゲリオン」などの人気作を含む約200作が無料で読める。月間100万人程度の読者の獲得を目指す。
大手出版社が自社のサイトで、漫画の単行本の1巻目などを無料公開する動きも出てきている。
なぜ、無料提供できるのか。
出版社側は「ネットである程度、無料で読んだ後に紙の単行本を買う人が増えつつある。無料購読をきっかけとするビジネスの可能性は大きい」とみる。ネット上の無料購読は、書店での「立ち読み」の役割を果たしているわけだ。
昨年の漫画の単行本の売上高(同研究所調べ)は前年比1%増の2231億円とプラスだった。漫画雑誌の売り上げが減り続けているのとは対照的で、「立ち読み」効果も出たとみられる。
コミックウォーカー事業局統括局長の渡辺啓之さん(45)は「(10月にKADOKAWAと経営統合する)ドワンゴが得意とする動画配信など、複数のメディアをまたいでマンガ関連の事業を展開できないか考えたい」と意気込む。
ただ、漫画の無料配信も一定のコストはかかる。単行本の販売と合わせて安定的に利益を出しているケースは少ないとみられる。
紙の漫画雑誌の販売部数は減り続けている。《読売新聞・ネットでマンガ無料公開》
少年向け漫画雑誌の草分けである週刊少年マガジン(講談社)の発行部数は、1990年代には400万部を超えていたが、現在は約125万部だ。出版科学研究所によると、国内の漫画雑誌の販売額は、95年の3357億円をピークに、2013年には1438億円に落ち込んだ。
一方で、マンガボックスのように、期間や分量を限るなどしてネット上で漫画を無料公開するサービスが相次いで始まっている。
福島県郡山市出身の作家、古川日出男さん(48)らが東日本大震災の被災地で行う無料サマースクール「ただようまなびや 文学の学校」が8月23、24日に郡山市であった。《産経:郡山で今夏も「文学の学校」 》
この講座もタイトルだけみれば小説作法を説く実践的な教室。だが真の狙いは言葉を形づくる「物の見方の大切さ」(古川さん)を体感してもらうことにある。物語の中で重視するポイントには個性が如実に出る。そこには人生経験も投影されているから、自分の内面を見つめ直すことにもつながる。東京から来た会社員の落雅季子(おち・まきこ)さん(30)は「よく知っていた短編への見方が変わった」。古川さんは「小説はみんなが同じアイデアを使って書いたとしても同じものにはならない。それは言葉のチョイス(選択)に自分が反映されるから。自分の言葉を届けるにはどうすればいいかを考えるきっかけになれば」と話す。
町田市公民館で定例化した文芸交流会です。今月は29日に開催します。前回の8月例会では、「群系」に掲載した小野友貴枝さんの「会長ファイル」について話題が弾みました。作者の小野さんは所属する市の社会福祉協会での活動が長く、福祉センターの会長時代の体験を作品化しました。感想などの討論の中で、著者が社会福祉協会の実態を知らせてくれました。
社会福祉協会の現状として、収支の透明性に曖昧さや不透明さが存在し、それが日常化して担当者が金銭感覚に麻痺し不正につなりかねないと話しました。作品では、窓口職員による横領疑惑騒動につながる杜撰な管理体制のなかで、女性幹部としての苦闘ぶりを書きました。
それが、文芸同人誌「群系」33号掲載の小説「会長ファイル」で、人事と組織関連の面から、男性社会で統括責任者として格闘する女性の一年間をレポート的に作品化しています。組織財政の立て直しを阻む事なかれ公務員の男達。財政改革を成し遂げた主人公の日々。そのフィクションの裏にある自治体社会福祉協会の杜撰な実態を作者が指摘しました。しかし、私はこの事こそ作品化して同人誌に掲載して欲しい内容だと思いました。
このところ、町田文芸交流会は文芸同志会の伊藤昭一さんが参加して貴重な意見を述べてくれます。前回は「小説における天来の閃き」と題したレジュメを配布し説明しました。作家・伊藤圭一氏に師事して会得したポイントが記載されています。その中から引用して小説「会長ファイル」への助言も行ってくれました。9月例会用には、参加者のエッセイ作品について、文芸としてジャンルの「詩」、「散文詩」、「散文」という形式の原理を解説するレジュメをすでに作成しています。
今後は、参加者拡大を目指して町田市との連携も考えています。
《参照:外狩雅巳のひろば》
自身初の単行本となる『夢の燈影』が、9月16日に刊行されます。本作は、これまで光の当たることが少なかった新選組隊士たちを主役に据え た、連作短編集です。
幹部の身でありながらずっと故郷に帰ることを考えていた者や、間者の疑いをかけられ居場所をなくした者、周りに流され段々と堕ちていった者など、近藤や土方らといった華々しく活躍した隊士たちの陰で、彼らは悩み、苦しみながら生きていました。
武士になりたいという確固たる意志を持っていた近藤たちからすれば、彼らの葛藤は取るに足らぬものと映ったかもしれません。しかしながら、彼らも近藤たちと同じように、「新選組という夢」を抱いて生きていたのではないかと私は考えています。
夢を抱いて生きることは、楽しいばかりではありません。努力をしても、報われないこともあるでしょう。挫折し、心傷つくことも多かったと思います。それでも彼らはそこで生きていくと決めました。
彼らが抱いていた夢は何だったのか、果たしてそれは叶ったのか――そんなところに注目しながら読んでいただけると嬉しいです。 (小松エメル) (講談社『BOOK倶楽部メール』 2014年9月15日号より)
デビュー作の「奇妙な仕事」に始まり、中期や後期の作品など計23編を収めた『大江健三郎自選短篇』が、岩波文庫の一冊として出版された。(読売新聞14・09・20・文化部 待田晋哉記者)
大江さんは現在、79歳になる。東日本大震災と原発事故に揺れる日々の中で刻まれた長編『晩年様式集イン・レイト・スタイル』を昨秋に出版した後、「自分がどんな小説家で、どんな時代を表現したのか知りたくなった」と話す。家に保管する雑誌から自作の全短編をコピーし、読んだ。
「本を開いたとき、全体が明るく見えるように」句読点や段落を増やした。作品の根幹に関わる校正はない。ただ東大在学中の22歳の時、発表した「奇妙な仕事」では、ある変わった仕事に携わる「僕」「私大生」「女子学生」の3人のうちの1人の設定を、「私大生」から「院生」に直した。
今の生きた日本語を使うことにも、気を配った。「空の怪物アグイー」の冒頭は、<ぼくは自分の部屋に独りでいるとき、マンガ的だが黒い布で右眼にマスクをかけている>。以前の「海賊のように」の語を、「マンガ的だが」に入れ替えた。
戦時下の村を舞台にした芥川賞受賞作「飼育」や外国兵と日本人とのある関わりが、鮮烈な残像を残す「人間の羊」。初期短編は、戦争のにおいが色濃く漂う。
小説「28歳の頃」(外狩雅巳)の評論「~~読み方・抄録」を北一郎「詩人回廊」で連載し、3章目を穂高健一ワールドに公開できた。ここで、その評論も掲載している。本作品に3章がなければ、北は評論の方向を別方向の曖昧なところに展開していたであろう。しかし、3章を読んで、正面から鑑賞する書き方にした。それは、作者の目線の低さである。下痢でトイレを我慢できずに漏らしてしうまう。作者は主人公のみっともなさを強調することができる。この精神は、自分の世界をばかばかしく見つめる自意識があるからだ。だから文学になった。それは風刺と諧謔の道につながる。作中人物の悲劇を突き放してユーモアにしていく。
誰にでも、自負やプライドががある。それは俗人としての傲慢につながりやすい。それから逃れようとする自意識を示めさないと、普遍性のある文学にならないと思う。汚い話を汚く強調するのは、暴力的表現であり、裏に美意識があるからだ。この作者は本能的に美に魅かれていることが、終章にでているのだが…。
たとえば西村賢太は、古い文学形態なのに、貧乏と性的欲望を強調して、自虐のポーズで、読者を惹きつけている。すでに5千万円以上の貯金があるのに、貧乏と風俗の女への欲望をかざし、底辺の人間的くだらなさを手放さない。この目線の低さが読者を面白がらせるのである。傲慢な俗人読者の優越心をくすぐりながら……。彼のファンだという石原新太郎は「もう、そんなに金があったら、貧乏話は難しいのじゃないの」と心配していた。たしかに女にも、もててしまうであろう。しかし、西村は「いや、いや、まだまだ先はあります」と動じなかった。目線の低さに自信をもっているのであろう。
九月初の掲載にたいしてコメントが寄せられました。有難うございます。その内容は自分史の自費出版はそんなに多くは無いだろうとありました。書き方講座を受け自分史を自費出版された方だそうです。
講座受講者よりも詩歌など他の部門での出版者のほうが多いのではと疑問を抱いているそうです。
考えてみました。写真集などの非文字系の本も多くありますね。ペット写真や故人の思い出写真、会合記念・旅行記念・庭の花々、――社史・同窓会史。出版して配布し保存する。文芸なんて少数派かもしれません。
新聞小説「マイストーリー」は自費出版社の社員が主人公の作品です。商売です。あらゆる手段であらゆる分野から客を集める必要があります。
私が文芸同人会の会員なので我田引水で物書きの本ばかり考えました。
新聞小説では口述筆記も有りで代書も有料で行うからと営業していますね。
以前、私の処に送られてきた本も、上等な布製本で数百万のものでした。
内容は他人に読ませる価値は無いのではと思いましたが本人の宝なのでしょう。
数種類を作成したとどっさり送ってきましたがお世辞の返事で済ませました。
今回のコメント者も自分史は文芸同人会で評価されないのではとあります。創作中心の同人雑誌では作品の工夫が討論になるのでひねった内容が多いですね。
この方も同人誌に参加されたようです。その時の感想からのコメントのようですね。
しかし、高齢化の今後は自分史的な作品も多くなるのではと思います。
生きた証。どこかに書き残したい。そんな人たちが大勢います。相模文芸クラブも新会員が続々と増えています。
これとは別に、町田文芸交流会で、9月29日に例会を町田市公民館で開催します。
《参照:外狩雅巳のひろば》
【「遡上」高橋駘】
これは、宙次という男の血族の消息を尋ねる巡礼の話であろう。まもなく40に届くという宙次。住まいと仕事が不安定な風来坊のような暮らしをしている。始まりは、腐れ縁で面倒を見てくれている女社長が知らせてくれた母親の死にかかわる電話。
男はその知らせによって、祖父母、両親、兄弟と血筋をたぐって非日常的な旅をする。自分が双子の兄弟と思っていたら三つ子だったらしいことを知る。東京、札幌、広島。時と場所を早めぐりする文章運び。いかにも小説的な設定である。宙次の行く先々で出会う人間が、細部に工夫を凝らした色合いをもって現れる。強い文章力がなければ構築できない世界を展開する。細部が小説を作るというが、盛り込み過ぎかも。
しかし、人間の業のようなものを刹那的にとらえる。強い文体がそれを可能にしている。話は、対抗意識とも反感ともいえぬ感情をもつアチャ、弟の朝彦を見つけ出して終わる。そこまで巡礼をした宙次の生活の変化は、面倒を見てくれていた腐れ縁の女社長に見限られたこと。その程度しかない。巡りめぐって「ここから先は、どうやって生きようか」である。不安定な風来坊に変わりはなさそうである。双六の振り出し。テーマは何なのか。それがわからないから、小説で追求したのか。この辺に、文章力による文学の傍流性を感をじる。しかし、これが傍流なら、文学の本流とは、何であるのか。その問題提起を孕む、読み応えのある作品ではある。
発行所=〒006-0034札幌市手稲区稲穂四条四丁目4-18。田中方。
紹介者「詩人回廊」北一郎。
表紙をめくると「しばしお休み号―北川荘平生誕84年没後8年」と記されている。休刊の宣言である。
【「北川荘平先生と枚方・雑木林文学の会―書くという病」安芸宏子】
作者は織田作之助賞の下読みをしていて、そこで正選考委員の北川氏に出会った。文章教室の講師となった北川氏に師事し、雑誌「雑木林」の23年間運営のこれまでの縁が記されている。
北川氏は人間の精神が何かに圧迫された状況があるから書くことをするので、「書かなくてよい状態になったら幸福」と考えていたらしいという推測をするのが興味深い。
そして「書く以上は、書きたいもの、伝えたいものをなるべく確かに伝えるためにある程度の技術や書き方があることを教えたかった。それがわが枚方・雑木林文学の会での北川先生の考え方であり指導だったのだと思う」とも――。
生活の実感を書き伝えることが、生きる意味を生むという効用がある。これは多くの同人誌サークルの底流であり、方向性を示したものであろう。そのために、それらは生活上の「同一世代性」の特性を持つ。高齢化によって活動が不活発になるのは止めようがない。
本号ではその一方で、伝える技術の研鑽として、競作「手」をテーマに、各同人が掌編を発表している。
これは文章技術を競うという、仲良しクラブ的な同人誌にはない、挑戦的なもので、北川氏の精神の反映がみられる。
競作の作品を読むと、言葉の芸術として高度な完成度を見せる作品があれば、素朴な生活日記的なものもある。作品の完成度は異なるが、それでも生命感や感動という面では、芸術性のあるものに負けす、素朴な生活日記の方も伝達力をもつのが不思議だ。
編集者の渾身の力がみなぎる第16号である。
また、コラムで北一郎詩集「有情無情、東京風景」について、評を執筆してくれている。北のもつ詩精というものの思い込みの本質をよく言い当てていて、喜ばされると同時に驚かされた。
発行所=〒573-0013枚方市星丘3-10-8、安芸方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
西尾維新です。物語シリーズ最新作にして最終作、あるいは再終作、『続・終物語』が発売の運びとなりましたので、ご挨拶させていただきます。本来は前作『終物語(下)』で完全に完結していたお話を、強引にもう一作書いたという感じで、最初から最後まで『百パーセント趣味で書かれた小説』を貫けたことを、とても嬉しく思います。
今後もアニメ版の副音声執筆が控えていますし、なんだかんだで短々編を書く機会もあるだろうから、そこまでの完結感は実はないのですが、ともあれ一区切りということで、よろしくお願いします。
ちなみに初回盤に同梱されている西尾通信に 『掟上今日子の備忘録』第一話が収録されています。そちらも何卒!(西尾維新) (講談社『BOOK倶楽部メール』 2014年9月15日号より)
自費出版社員を主人公にした林真理子「マイストーリ」新聞連載を連日楽しみに読み続けている。
そんな今日。久しぶりに自費出版社からの営業電話がかかってきた。一年ぶりである。かつては毎月あちこちの出版社から来ていた。久しぶりに元気に対応してみた。
先ず、広宣社と名乗ってきた。こうせんしゃと言う発音から想像した社名である。新人社員だろうか、抑揚のない棒読み的な言葉はマニュアルのままなのだろう。
図書館で外狩さんの本を読みました。大変感動しましたと無感動に語っている。
つきましては、明後日の産経新聞に一ページを使い一期一会の感動と題して広告します。
この感動を多くの人に届けたいと思っています。次々に無感動な棒読みが続く。
ひとしきり言いつのった後にようやくいかがでしょうかと質問してきた。やはり、朝日新聞での「マイストーリー」が業者にやる気を起こさせたのだろうか。
しかしこれはひどい。こんなトークでは客をその気にさせるのは2百%無理だろう。
有難うございますと答える。わざわざ読んでもらってうれしい限りです。
僕の「青春は陰りて」多くの方からそのような感想を頂いています。もっともっと読んでもらいたいのですが。もう本が残ってないんです。
どのくらいありますか。
一冊しか無いのでどなたにもお渡しできないんです。
とたんに、反応が変わった。そうですかわかりました。カチャリと切れた。
一日中電話機に向かって同じトークを繰り返す。千に一つは受注できるのか。
若い頃、そんな会社に面接に行った事が有った。無理だと思い入社しなかった。
社内はそんなトークを繰り返しながら一本上がりと報告する社員達が多数就労中だった。
企業広告を集める会社で電話先は業種毎に電話帳から虱潰しに掛けまくる仕事だった。
馴染になった企業から再度の広告受注があり結構業績も上げられ出来高制賃金の会社だ。
それでも、毎日おなじトークの電話をかけ続ける仕事にはとても無理と思った。
そんな仕事で頑張る相手にはもう少しいたわりの言葉も言った方が良かったかな。
以前、一人70万円で新聞一面広告に数十人が羅列される誘いを断った事があった。
需要があるから自費出版もその広告も成立しているのだろう。美味しい業界。そう考えると、新聞小説の内容も妙にリアリティーを感じる。
《参照:外狩雅巳のひろば》
コメントの投稿をいただいていたのに、気が付かないで公開しないでいたものをチェックしておくればせながら公開できるものはしました。設定をみるとコメントが入ると連絡がくるようになっています。それなのに連絡がないので、気がつかなかったことがあります。関係ない事物のや不適切なものが増えて、非公開、削除対応をする際に何かシステムを変えてしまったのか、調べています。
須貝光夫「再び霊鷲山に佇つ」(「コブタン」37号)、大木戸甫碵(まさひろ)「安保物語…氷雨降りしく羽田空港店…」(「月水金」38号)
「群系」33号「昭和戦前・戦中の文学」特集より長野克彦「地動海鳴(その5)」、「渾」80号「音」特集より藤井徳子「絵手紙の福音 おたふく」
「微燈」復刊準備号
稲垣友美「小説・土曜日の足音」(「象」79号)、武田久子「青い海が道連れ」(「スクランブル」29号)、西芳寺静江「ジョーゼット成人式」(「水晶群」67号)、牛嶋恵子「夏の夜空」(「れもん」26号)、今村有成「ダンケルク」(「詩と真実」8月号)
「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)
文芸同人誌即売会の文学フリマ(事務局)では、文芸雑誌の新人賞公募に「未発表作品」という条件があるものに対し、フリーマーケットやネットで公開したものでも、応募が可能になるように規定条件の緩和を要望するキャンペーン署名活動を開始した。《参照:暮らしのノートITO文芸と思想》
文学フリマでの販売を目的にした作品と、従来の古い形の自己探求を文学で表現するする仲間が集まった文芸同雑誌とでは、微妙な差がある。書くことそのものに意義を見出すことに傾斜した文芸雑誌にくらべ、時代を意識し自ら販売をして読者を広げる手売り型同人誌や個人誌のほうが、市場意識が強く、作風もそれなりに時代性を考慮している。それなのに、意欲の強い作品が公募から外されるのは、不合理ではないか、という話は以前からあったものである。
朝日新聞朝刊に連載中の林真理子「マイストーリ」が百回を超え佳境に入っています。自費出版を手掛ける出版社の社員の視点で描かれている。業界内部も興味深く読んでいます。
自費出版を行う人々とそれを商品化する実情も掘り下げています。しかし、ひとつ疑問を持ちました。自分史などを自費出版する人たちと同人誌での書き手との関連が出ていません。
文芸同人誌に加入して作品発表をする人たちの大部分は自費出版を行っています。小説作品を多数掲載したら冊子にして纏めるのです。これは自分だけの作品集です。
このような同人誌作家の中から文学賞受賞作者も生まれています。プロ作家も出ています。詩歌や論評で冊子を作る者もいます。詩集・歌集はかなりの数だと思います。新聞小説で登場する書き手は今のところ、自分史の書き手です。
全国には文芸同人会が千以上あります。短歌等の結社も多数あります。このようなところで活動する人たちが登場しません。すこし不思議に思っています。
文芸同人会・結社などで常日頃創作を続けて筆力を鍛えた人こそ自費出版の主力と思っていました。
そのような経歴が無い人がいきなり自分史を書くのは大変な事だと思います。口述を纏めて作品化する専門家に頼む事も書かれていますが自分の筆力で書く作者を余り登場させません。
林真理子氏の視界には同人誌作家は無いのでしょうか、それとも除外しているのでしょうか。
朝日新聞小説の読者はどう読み取っているいるのでしょうか。意見も有ると思います。図書館などではコーナーを設けて自費出版本を並べています。かなりの数量です。
作者紹介の欄には結社や文芸同人会での活動歴と受賞歴が紹介されています。著名なプロ作家も本心を書く為に自費出版を行っている例もあります。
文芸同人会の会員である私から見るとこのような意見も出るのです。この新聞連載はまだまた続きそうです。今後も興味深く読み進めます。
《参照:外狩雅巳のひろば》
小説「28歳の頃」(外狩雅巳)の評論「~~読み方・抄録」を北一郎「詩人回廊」で連載しはじめた。外狩氏は、すでに書籍化して文学仲間に配布している。すると、それまで、なぜこのような作品を書くのか、作者の意図がわからなくて、興味をもたなかったが、評論を読んで、納得したという反応があった、という。そこで文芸同志会と穂高健一ワールドでリンク活用し、もっと認知をひろめようというものだ。北一郎の視点は、マルクス経済学における労働者の人間性の「疎外」とは何か? というものが出発点だが、それを文学に応用したものである。外狩氏は、それが文体評論にまで及ぶなら、それでいいという。
外狩作品には、このほか「足払い」という短篇があって、それについての北の評論があるので、それもこの仕組みで公開したいと、意欲的である。
他の会員の話によると、情報の長期保存期間が読み捨てされる雑誌や週刊誌よりもネットサイトの方が、長く保存されるという傾向が出ているそうである。これまでにない試みなので推進させていきたい。
本誌は朝日カルチャーの「短篇小説を読む・書く」(藤田充伯講師)の教室から生まれたもの、とある。渡辺勝彦氏を筆頭に、創作的な工夫と社会的な問題意識のある作品が多い。たしか前号は紹介しなかったが、松岡博「煙のように消えた鬼頭先生」などは、とぼけた味があって今でも記憶に残る。発行に補助金が出るそうだが、そういう自治体が他にもどのくらいあるか興味が湧く。
【「闘争の行方」(二)吉岡千尋】
三池炭鉱の労働争議の現場をモデルにしている。1960年代、第一組合と第二組合に分裂する労働者側と資本の戦いを描く。歴史の詳細にこだわらず、ざっと調べて描いたものようだ。それが短篇小説化という意味では、よい手法になっているのかも知れない。会社の事業が、すでに社会的な役割を終えて、経済活動が幕引きの断末魔の状況になると、整理屋の資本が動き、国会議員や暴力団などの有象無象が暗躍するところも指摘されている。組合を内部分裂させて、反体制勢力を弱体化させる手法の痕跡は現在まで続く。業界別御用組合化し、体制維持のためさらなる階級差別を生む状況の説明にもなっている。運動のリーダーの崎田が行方不明になったところで終わるが、それが大きな思想の喪失を意味するのかも知れない。
【評論「三浦哲郎論」藤田充伯】
1961年 に『忍ぶ川』で第44回芥川賞を受賞し、当時は一種のブーム的なものがあった。
その作者の私小説の部分に焦点を当てたもので、三浦作品の背後にある農村の歴史的な血の繋がりの負の部分を取り上げている。私小説作家としてのひとつの精神構造パターンをわかりやすく解説している。
発行所=480―1147愛知県長久手市市が洞1-303、渡辺方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一
冒頭に、つぎのような事情がが述べられている。文芸同人誌即売会「文学フリマ」の第3回から見本誌として提出された雑誌類を同会の望月倫彦代表が段ボール60箱に保管していた。同代表が日大OBということで、谷村氏が日本大学講師をしている縁で、それらを日大資料室に保管することになったという。同大学ではゼロ年代世代の同人誌の資料としてデータ―整理に意欲を示している。
「反復する日々」
≪対象作品≫
字江敏勝「亡者の辻」(「VIKING」761号・和歌山県)/値場至「豆腐屋のラッパ」(「私人」第80号・東京)/鬼頭秀夫「夢の向こう」(「じゅん文学」第79号・名古屋市)。
本誌同人の奥田寿子さんの作品「女ともだち」が、雑誌「文学界」1014年上半期同人雑誌優秀作で掲載されたという。どの作品も書きだしを読むだけで、かなり充実したものであろうことがわかる。そのなかで、ぱっと一目で何かを言えるものにしか触れられない。同人誌読みの不可解さは自らの中にある。編集後記(あふち)さんが、今回の19作品を読んでいて、「自分が今、ここに生きていると実感した」とある。たしかに、別の世界が垣間見えるものがある。
【「敗戦紀」善積健司】
善を積むという筆名が面白い。ラッパーという職業になるのかどうか。瞬時にリズムのある言葉を駆使して人の心をつかむ表現の作業である。そのバトルの様子と、ラッパーと小説を書くこととのつながりを語る。エッセイとあるが、文章にスタイルが出来ていて、読ませられる。このまま小説になっている。三田文学の同人雑誌評で前作「ベランダの向こう」が評されている。やはり文章スタイルとテーマが現代的なところが良いのであろう。ラップのリズムの照応した文体の開発が期待できそう。現代的で刺激的な側面があるので、読者ファン層を生むような対応策があればもっと良いのかも。
〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎
「第十九回文学フリマ」2014年11月24日(月祝)東京流通センターに文芸同志会の出店参加が決まりました。会では、多種類の出版物を用意しています。その案内を「文芸同志会のひろば」に掲載してゆきます。しばらくは、その案内を兼ねて外狩雅巳「28歳の頃」をテキストと照合して解説が読めるようにしていく予定です。「28歳の頃」は、作者の町工場勤務の経験をもとに、人生を有意義に生きたいと思いながら、それにふさわしい生活をしていなかった、という主人公の焦りの実情を描いてます。
もし、この状況でアントニオ猪木に「元気ですか?」問われたら「ノー・ノー」というでしょう。作者は、批判的な視線を主人公に注ぎながら、同時に、そうせざるを得なかった社会的な境遇を説得力をもって描いています。懐古的に、それでも良かった、自分は青春を戦って生きたという自己満足を得ようとした姿勢が見えます。そこには、かつての恋人と過ごしたロマンとして人生をとらえる物語世界と、生活のリアリズムにおいて、孤独な個人としての無力で頼りない、自分の人生の意味を他人の評価にゆだねなければならない、人間社会との接点の問題提起があります。そこで、穂高健一氏のサイトでの公開を推薦しました。彼も、それに賛同したので、共同推薦となります。
外狩作品のスタイルは、職場や社会の人間関係に本来の自分が歪められているという意識から、社会的な敗北する人間像を描くことで、共通しています。それが階級社会を仮想したり、コンプレックスを仮想した壁に突入し、弾き返される人物像になっています。これは個人の性格でなく、人間のもつ性質を人間像にしているのです。
ニーチェ思想では、自分が毎日元気で生きているか、いないかを気にするひとと、日常生活をみんなと同じように過ごすことに満足するしている大衆とを分けています。後者を「畜群」とか翻訳するひともいます。牧場の羊や牛のことでしょうか。
北一郎は、当初からそこに焦点を置いて、人はなぜ日常性に満足しないのか、人はなぜ壁に挑むのかを考えるものにしようとしたのですが、外狩氏は同人雑誌で書く仲間が興味を引くような語り方にして欲しいというので、その方向性を修正したものです。推敲が不十分でテニオワがおかしいですが、このような器用な方針転換がすぐすることができるのが北一郎の特性でしょう。ところで、いまあなたは「元気ですか?」また「元気でなくても良い」と考えますか。
題「思い重なる言葉」
吉貝甚蔵さん「失われるものたちへ」(「季刊午前」50号、福岡市)特集「短歌から創る」のうちの1編
はたけいすけさん「あしたは 晴れている」(「海峡派」131号、福岡県北九州市)
『響きあう運動つくりを 村田久遺稿集』(同編集委員会編、海鳥社)より「大企業の向こうずねを蹴る」、「ほりわり」28号(福岡県柳川市)の第2回長谷健作文コンクール入賞者は待鳥維吹さん・えがしらはなさん・木下愛未さん
古岡孝信さん「じゃ、ばいばい」(「二十一せいき」24号、大分市)、「季刊午前」創刊50号記念号企画「二〇〇〇字特集」より欅わたるさん「哀しさは」・椎窓猛さん「文学的先輩北川晃二師の恩情」、さとうゆきのさん「無言館をたずねて」(「海峡派」)
「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)
穂高健一ワールド・サイト「寄稿・あなたの作品」コーナー(9月1日付)で、作品「28歳の頃」(外狩雅巳)の公開をはじめました。先に説明した当会と穂高健一氏との提携活動の一環。会の主宰者伊藤昭一の「文学的な問題提起の可能な作品価値がある」という推薦条件をを穂高氏が承認したものです。外狩氏もそれを了承したことで実現しました。すでに、北一郎が評論「『28歳の頃』の読み方」を執筆しており、これを順次発表しながら、文芸評論の新しい手法の開拓をめざしていくつもりです。
作家・穂高健一氏が「中国新聞」に歴史コラムを連載するという。小説「二十歳の炎」の出版が地元広島で話題になったりしている。《参照:穂高健一ワールド》
以前から、このサイトに文芸同志会の伊藤と穂高のふたりが推薦する作品を掲載するという提携をしていた。《参照:文芸同志会》「作家の人気サイトに、あなたの短編小説を載せましょう」企画=やろうといいながら、お互いになかなか実行が出来なかったが、このほど、外狩雅巳「28歳の頃」を両者が読む機会があったことで、原稿の編集チェックを進めている。データの転送で、パソコンが変わると、行が途中で折れたり、飛んだりするようだ。会としてはここで、公開をしておけば、すでに、その作品の評論を北一郎が執筆しているので、評論公開に意味があることになる。
読者の少ない作品は、データーベースとしての要素が小さいので、作品を提示しながらでないと、理解しにくいので、その対応手段として、試してみるつもりだ。
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