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2014年9月20日 (土)

「28歳の頃」3章の目線の低さに注目=北一郎

 小説「28歳の頃」(外狩雅巳)の評論「~~読み方・抄録」を北一郎「詩人回廊」で連載し、3章目を穂高健一ワールドに公開できた。ここで、その評論も掲載している。本作品に3章がなければ、北は評論の方向を別方向の曖昧なところに展開していたであろう。しかし、3章を読んで、正面から鑑賞する書き方にした。それは、作者の目線の低さである。下痢でトイレを我慢できずに漏らしてしうまう。作者は主人公のみっともなさを強調することができる。この精神は、自分の世界をばかばかしく見つめる自意識があるからだ。だから文学になった。それは風刺と諧謔の道につながる。作中人物の悲劇を突き放してユーモアにしていく。
 誰にでも、自負やプライドががある。それは俗人としての傲慢につながりやすい。それから逃れようとする自意識を示めさないと、普遍性のある文学にならないと思う。汚い話を汚く強調するのは、暴力的表現であり、裏に美意識があるからだ。この作者は本能的に美に魅かれていることが、終章にでているのだが…。
 たとえば西村賢太は、古い文学形態なのに、貧乏と性的欲望を強調して、自虐のポーズで、読者を惹きつけている。すでに5千万円以上の貯金があるのに、貧乏と風俗の女への欲望をかざし、底辺の人間的くだらなさを手放さない。この目線の低さが読者を面白がらせるのである。傲慢な俗人読者の優越心をくすぐりながら……。彼のファンだという石原新太郎は「もう、そんなに金があったら、貧乏話は難しいのじゃないの」と心配していた。たしかに女にも、もててしまうであろう。しかし、西村は「いや、いや、まだまだ先はあります」と動じなかった。目線の低さに自信をもっているのであろう。

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