外狩雅巳氏の感受性と壁意識
北一郎がもっぱら評論を書いているのが外狩雅巳作品についてである。これは彼が、ネットの素材をアナログの世界に展開することに文芸同志会が協力しているためである。《参照:外狩雅巳のひろば》これによると、なぜか現在の同人誌の現状から脱却しようという試みをしている。いわゆる現状を認めながら、現状変革への姿勢をとる。
この変革を求める精神が、彼の作品のスタイルでもある。彼の作品の登場人物は、挫折と失敗を繰り返すことがほとんどである。組織の正義に敗れ、仕事も失敗する。そのために社会的に勝ちがない。同人誌作家のなかには、このようなスタイルを、社会人として、くだらない失敗をするばかな人間の話などを読んでも仕方がない、もっとましな人間を書いた方が良いと思っていて、北一郎はお世辞をいっているのだ、という論もあるそうだ。たしかに、同人誌の同人には、功成り名を遂げたひとが多いから、そう思われるのは仕方がない。感受性のすれ違いはよくあることだ。
しかし、北一郎からすると、自分も挫折と失敗の連続ばかり、という自意識がある。外狩作品を読むと、「登場人物はお前のことだぞ」と作者が言ってるように受け取れる。なるほど、だから自分の人生に満足感や充足感がないのだな、と内心で納得できる。同時に現在の社会に充足感がないのは、実際は多くの人が作中人物のようなことをしているからなのではないか、という作者の批判精神の表れにもなっていると読めるのである。外狩スタイルには、何らかの壁の存在を感受する意識がある。その壁意識をさぐれば、どれでも評論できるということになる。無意識であろうとも、自意識こそが文芸の源泉であると思わざるを得ない。それは書き手と読み手の感受性の衝突と了解で成立する。
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