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2014年8月22日 (金)

濱地天松居士の「金剛経道」と夢幻泡影の現実

 かつて金剛般若経による座禅体験の縁をブログに書いたら、師の師である濱地八郎天松居士について、私の師であった林天朗居士の遺稿を天松居士のお孫さんの光男氏が発見したという。それを本にしたというので、先月親族の発刊記念パーティに招かれた。金剛経というお経は座禅の手本として一般的で、よくぞ自分のブログを見つけたものだと、驚いた。天松居士は、国士舘大学の理事などもされていたそうだ。《参照:「金剛経に一生を捧げた 濱地八郎天松居士」の周辺(1)》
 金剛経の要点は「我々が存在すると疑わない現実は、夢幻泡影のごとく、あるいは稲妻のようなものである。それはあると思えてない、ないと思えてある」というところにある。ハイデッガーが人間は「世界の内に存在」するという哲学と照応するところがあるように思える。
 同時に、言葉や文字の表現が、存在感をもって感じられるのはなぜか。私はアメリカに行ったことがないが、その国の存在を疑わない。これは人間関係のなかで、情報を得て、どうもあるらしい、と思わせられているからである。行ったことがないから、あるかどうかわからない、と主張したら変に思われるであろう。このように相互の了解をもって、そのことが本当かどうかが確認している。それは本当らしいという相互了解の作用である。
 小説におけるリアリズムは、本当らしいかどうか、であって、事実かどうかではない。体験記を忠実に書いても、夢幻泡影の現実であって、それは今はない。「過去心・不可得・現在心不可得・未来心不可得」である。
 

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