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2014年7月23日 (水)

文法の関節外しから「季刊文科」62号文芸季評=伊藤氏貴担当

 この欄で、伊藤氏貴氏は保坂和志「未明の闘争」を、文体実験の光る純文学作品。-とし、以下のように記している。
「『私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。』
 冒頭第一段からいきなりかまされるこの文法の関節外しは、もちろん周到に計算されたものであり、誤りではない。と言っても「~は」は(限定の副助詞)であり、(主語)でなく(主題・話題)を限定して示すものなのだから、日本語としてはこういう使い方でいいのだ、という開き直りでもない。一般的な語法でないことは重々承知の上だ。
 では一体なんのための関節外しか。--」
 あとは、この雑誌を読んでみればわかる。こうした文芸評論が、純文学のプロの作家の作品を対象に行われている現在である。
 7月20日に「町田・文芸交流会」が開催され、文芸同人誌作品の評論、読後感想など合評会での意見の出方の現状が話合われた。そこで、文芸同人誌において、ただ物語性だけが問われ、理解できるものがよくて、理解できないものについては、論評をしないという傾向についてこれを打破するためには、どうすべきか。そうしないとそれを書いた作者のためには不誠実ではないか。結局は、難しい専門的な評論を書く人はつまらなくなってやめる。そのことは同人数の減少になる、という意見がでた。
 それと前後して、合評会では感動したら良い作品という意見でまとまる。しかし、「一杯のかけ蕎麦」という世間話が感動話として話題になったが、これは文学作品になるのか? いや、あの話はおかしい。一杯の蕎麦を分け合うくらいなら、最初からそのお金でパンを買えば、親子がそろって空腹を満たせる。現実的ないので、これは物語化されているーーという意見もでた。
 また、立派な評論を書く教養があるのに、自分でお金を出して同人誌に書くのは、適当なことであるのか。いや、いくら高尚な理論でも、発表する場がないから、同人誌にだすのだし、そのことによって出版費用を助けあえるのだから、良いのではーーというのも。
 ここで、誰がどう言ったかを書かないのは自由に話を飛ばして話すので、だれがいったかということはわからなくなってしまうのであった。その他、雑談だけの集まりになったが、そのなかに文芸同人誌を存在させる要素が何であるかという現実が見えてきたような気がしたのであった。また、伊藤の文章はテニオワがおかしいという話もでたが、これは関節外しでなく、ただの間違い、骨折です。(伊藤昭一・記)

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