文芸同人誌「海」89号(三重県いなべ市)
会員から自作品の「作品紹介」でない「文芸評論を書いてみないか」と言われて実施している。同人雑誌作品を文学として評論することが少ないのだ、と感じた。たしかに、文集的な書き物も文芸として掲載されている。それらは生活文章としての価値ををもつ。日本人の歴史的な識字率の高さのもたらす優れた文化である。それがいわゆる文学と同じなのか、異なるのか。その違いを検証している最中での紹介文である。
【「雛人形」宇梶紀夫】
宇梶氏は「農民文学賞」受賞作家で、農民文学では有数の作家であろう。今年の季刊「農民文学」304号では、「鶏頂山開拓物語」を執筆している。これは鬼怒川温泉からやや離れた土地の開拓民の苦労する姿を、リアリズムで描いたもの。今では農民の時代小説、歴史小説と見て良いであろう。「雛人形」も鬼怒川沿いの農民の生活を現代の姿で描く。手法はリアリズム。作者はその現実を提示して、農民の心情を映す。詩人の谷川雁は、日本人の民族的ルーツは農民であるのに、労働運動は農民をプロレタリアートとしての同胞にしなかったことを活動の停滞の原因のひとつにしている。ここでは農民プロレタリア文学がいまだ存在していることを示している。農民の心情だけでなく、村社会の構造についてもっと触れたら、現代性が増したように思う。
【「雨ぞ降る」国府正昭】
これは、いわゆる無差別殺人のような殺人者の視点と、何も知らずに被害を受ける生徒と関連する教師たちに視点を移動させて描く。文学的意欲作で、最終章で犯人の一人称に変わり、「罪深き『私』にこそ雨がふるのだ」と思う。雨が罪を洗い流すとする。実存的な小説である。多くの文学作品には天候の情景が設定された場合、それは状況説明に暗喩としての意味をもたせ、効果を重層させるのがほとんど。ただ同人誌には、それがほとんなく、「雨がふれば、たた雨が降ったけで他の意味がない」という定義をしようと思ったが、そうでない事例もあることがわかった。
【「鉛の棒」遠藤昭巳】
東日本大震災の現状の視察記である。報告者の気分が「めまい」がで表現されている。作者は同誌に「哀歌」という心優しい詩を発表してにる。災害地のレポートにはジャーナリストの胸を突くようなものが多くある。形にとらわれずに、詩でもなんでも投入したらどうなんだろう、というのが感想である。
発行所=511-0284三重県いなべ市大安町梅戸2321-1。
紹介者「詩人回廊」北一郎。
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