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2014年6月 7日 (土)

同人誌の存在を解説することから

  掲載費用を負担して、同人誌に書くということは、自分が読むためにだけ書くことができるという特権がある。それは世間的な文芸世界と価値観では、一線を隔すものでもかまわない良いということだ。そうしたなかで、まるで市販「文芸雑誌」価値観をそのまま同人誌雑誌にあてはめるような作品感想が多い。それには社会的な仕組みの制約があるためであろう。長年、社会的な現象として同人雑誌成立の流れをみてきた立場から「文学フリマ物語消費」(詩人回廊)にそれを書いてみようと思っている。その基本は「お金を出し合って文集を作ろう」という動機である。私は印刷所の編集部門の請負を2、3社かけもちをしてきた経験があるが、同窓会や会社の同期生たちが、お金を出し合って思い出話を文集にする事例も少なくなかった。詩や短歌エッセイ、社会批評など多彩であった。同期生同人誌とでもいうべきものである。それは、同人以外に読むことはないので、仲間以外に読む人はいないし、他人読んでもらう必要もない。文芸同人誌のデーターベースにはそうした要因の影響がどれほどあるかを考えてみるつもりだ。

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