顔の見える文芸交流会に参加~同人雑誌で書く意味になるか
町田市の公民館を会場にした詩誌や小説同人誌の文芸愛好家の集いが、開催され、それに参加した≪参照:外狩雅巳のひろば≫。これは、それぞれの発表雑誌の枠から離れて、顔の見えるところ意見の交流をしようというもの。今回は小野さんの小説や、町田の詩人蒼野しほさんの詩作品「感性」についての印象を話し合った。
皆さんの話を聞いていると、話の噛み合わないところも出た。それでいいのだが、他者の作品をとやかくいうのであるなら、やはり自らも作品を提示してあれば、多少のずれはなくなるかも知れない。
これまでは、団体機関誌紙に経済展望や解説を書いてきた。十年ほど前は、たまに手が空くと、読み物を娯楽系の雑誌やスポーツ新聞のコラムなどを投稿というか、直接編集部にかけあっていた。そこでは、面白いか面白くないかが基準で、はっきりしている。「これは、いいんですが、惜しいですね。いまひとつ物足りないですね」と言われたら、すぐ諦める。「いまひとつとか惜しい」というのは、断る言葉である。良くないのだ。それに対し「ここをなんとか直せませんか」と言われたら、採用しても良いという意味にとる。その場で、「では、こうしたらどうです」とその場で修正することが多かった。
これに対し純文学は、基準がない。相当つまらないものでも良いものは良いらしい。ただ、そこに共通するものは、「個人的なこだわり」を徹底的に追及するということであろう。
そのため、純文学の私小説優位にあるのは、生活のなかのこだわりを見つけやすく、誰にでもわかりやすいということである。いま著名な私小説作家のものを改めて読むと、片や風俗の女の態度がどうのこうのと、こだわれば、片やは文化人として妻をともなって旅に出て、であった出来事がどうのこうのと、なんとも性的な欲望(わたしが「おまんこもの」というジャンル。娯楽小説と同じだ)に絡ませてくだらないことを書き連ねる。人間がいかにつまらない存在であることを、身を持って証明する話ばかりだ。これは反教育的で、たしかに文学は道徳的な危険をともなうところがある。
自分は、ひごろから頭が変だと思えてならない。家族からも高齢者精神科で診断を受けるように迫られている。人間にはこのような頭の変なやつもいる、という証明になるようなものを書いて文学賞に応募してみようかと思うのだが…。まだ続きます。
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