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2014年5月31日 (土)

「文学フリマ」見本誌を日大藝術学部資料室で保菅

 文芸同人誌のフリーマーッケト即売会で実施してきた「文学フリマ」参加サークルの見本誌コーナーの提出見本誌を日本大学藝術学部文芸学科資料室(所沢校舎)に収蔵寄贈したことがわかった。《参照:暮らしのノートITO「文芸と思想」》


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2014年5月30日 (金)

「2014外狩雅巳の世界」(東京)=作品紹介(投稿)

 「2014外狩雅巳の世界」(文芸同志会)が送られてきて、文芸同志会通信に批評を投稿して欲しいというので、書きました。
【外狩雅巳「偽りの日々」】
 この本には、いくつかの短編小説と著者の作品「28歳の頃」に対する北一郎氏の評論が載っている。どうすれば採用してくれるのかを、本サイトの主催者に聞くと、読んでみたくなるような紹介文がベスト。どうせ自分の金でだしたのだから、第3者が悪口をいう筋合いではないので、読んで他人が参考になるようなことで軽く済ましたものなら良いーというので、出してみます。
 【火を盗む者】ギリシャ神話の中に人類に火を与えたとしてプロメテウスはゼウスから罰せられる物語があります。火を与えられた人類は発展し繁栄したのですが果たして現在の繁栄は良かったのかと思わせる作品です。資本主義の価値観に捉えられ袋小路にはまり込んだような21世紀。幸せとは何かと考え込みました。
 【隠れ住む男女】作品は過激な学生運動が盛んなころに結ばれた青年たちの後日談として進みます。男は官憲に追われています。オウム真理教徒が長期潜伏後に逮捕されたニュースをヒントにして書いた作品だと思います。安易さがあります。男女の情愛が読者を引くと考えその描写に多くを割くが、通俗表現も多く工夫が足りないと思います。
【引用文】北海道の高岡啓次郎氏がフォークソングの歌詞の引用を捉え作者自身の言葉で書くようにとネットで評しています。そこは作品の盛り上がりが有ったのでは無いでしょうか。私はそれよりも歌謡曲からの引用が通俗的だと思いました。―曇りガラスを手で拭いてぇあなぁた明日が見えますかァーと「サザンカの宿」のイントロをベタで書くのはどうかとも。
 【通俗好きな作者】冒頭の女が買い物中に落ちていた小銭をくすねる部分は将に作者が通俗を意識し読者を惑わそうと見え見えですね。硬直した学生運動用語・政治用語との対比がアンバランスです。読者の作品との向かい合いを妨害しています。他の作品ではユーモアを交えた表現も行う作者が主題に正面から向き合い余裕の無さをカバーするように見えました。
 【本当のテーマは】作者は過激派学生運動思想に共感しているような感じです。ニューヨークのビルへの航空機追突テロ事件や革命史の書き方です。ロシア革命批判は過激派学生思想・革マルを見本にしているようです。赤軍派などの行為に寄り添っています。
 作者の本音はこれが書きたかったようですね。安保闘争の挫折からの資本主義繁栄の歳月を否定したいのでしょう。
 【失われた歳月】プロメテウス神話からの人類史が歪曲された失われた二十年。それが作者の意図なのでしょう。負け犬の遠吠えですね。レーニン主義で日本革命の展望を説いた共産党とトロッキー主義で暴力革命を支持する全学連運動の歴史が書きたいのでしょうか。蜂起主義が挫折してからの歴史を偽りの歴史と書きたいのがこの作品の主題ですね。しかし成功しているとは言えませんね。
 【火を盗む者】誰でもいいから殺したいと追い込まれる若者。小銭を溜め込み年金生活に逃げ込んだ高齢者。戦争が出来るように法を変える国。政治は小説のテーマに成るのでしょうか。火を盗んだのは誰だ!と考え込まされた題材なのに通俗表現で薄まった作品でした。(紹介者・川藤健一)

追記=紹介は、これでいいのか。北一郎はこの作品をどう読み替えるのか。この会への入会希望などをコメントで問い合わせいます

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2014年5月29日 (木)

霞んで見えない時代に=北一郎のパノプティコン状況

「パノプティコンとは、イギリスの思想家、ジェレミー・ベンサムが考案したとされる刑務所の管理形式で、しばしば「一望監視施設」などとも訳される。」「詩人回廊情報化社会の思想と主体(5)」で山川豊太郎が言及している。
 「囚人たちを収容する監房は、パノプティコンにおいては、環状に三六〇度に渡って配置されており、その中心部分に、監視者が勤務する看守塔がそびえている。監房は完全に外界から隔離されており、囚人同士が互いに言葉を交わしたり、その存在を確認したりすることが禁じられているのはもちろんのこと、自身を監視する看守塔そのものも、特殊なブラインドによって目にすることができない(当然、一方の看守からは、囚人たちの様子は、それこそ三六〇度に渡って、常時、丸見えの状態にある)。」
「フーコーが強調するのは、このシステムにおいて監視者は、理論的には、看守塔に常駐している必要性すら、本当は不要であるという点である。」
 人間というのは、自分が世界を知っていると思っている。その世界は、自分だけの世界解釈であることを意識することは、普段はない。私は、外国に行ったことがない。アメリカもアフリカ行ったことも見たことないから、それらの国が存在しないかもしれない、とは思わない。多数の情報を与えられて、自分でそれらの国があるにちがいないと確信している。こうして自分の意識でまとめたもの。それが私の世界なのである。
 権力者が命令しなくても、わが国の島に外国が無断で侵入したとか、日本の悪口をいったとかいうニュースを流せば、国民は自主的に戦争の準備を容認する。それは自然なことであるが、自然なように見えるのは、パノプティコンの囚人であるからなのだ、という自意識を起こさせるのを文芸の自己探求の作用としたいものだ。

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2014年5月28日 (水)

文芸交流会(5/31開催)の作品の読み方=外狩雅巳(投稿)

  町田文芸交流会を発足させた理由の一つに同人雑誌会合への不満足があります。相模文芸を結成し長らく会合を行いました。同人誌作品の感想を話し合いました。他会の作品は議論しませんでした。会員の出版本も読書し論議する事はありません。
  今回は会員仲間の掲載した文学論を評した一文を掲載しましたが合評対象外となりました。これらを交流会で実行したいと思い発足したのです。そして町田公民館で5月31日にそれを行います。
  今回は「2014外狩雅巳の世界ー創作編」に掲載した北一郎氏の「外狩雅巳《28才の頃》の読み方」を巡って討論します。文中で北一郎氏は作家・評論家達の文学論・作品論等を提示して持論展開の材料にします。すなわち評の評を書いています。その北一郎評論文を一つの作品として論じ会うのです。《参照:外狩雅巳のひろば
 小説・評論・詩・手記等々すべて発表された文は討論・評の対象になると思います。北一郎氏の作品評は自身の文学史語りや哲学解釈等の持論展開になっています。
  外狩作品はプロレタリア文学から新感覚派への歴史を語る為の材料となりました。外狩の作品的悲劇を表題にして自身の文学史論を展開する方法を行っています。
  その中で外狩文体の特徴を書き、筋の展開の粘りの無さも解き明かしています。哲学も経済も持論を展開する為にはまず外狩作品を解剖しています。たいへん深く読み込んでいます。必要なら原作引用も行います。
 即興性を重んじ詩的感性を持つ外狩文体の特徴をきっちり把握しています。作者の内面も観察し指摘します。正解が多いです。優れた評者です。
  今回の本の表紙の惹句「社会思想の変遷」の指摘は将に北一郎評論の切り口ですね。作者は裸にされた!と感動しましたがまだ少し隠し持っています。
  ネタバラシを幾つか書きます。「2014外狩雅巳の世界ー創作編」に収録の「偽りの日々」のなかで、121ページのー曇りガラスを手で拭いたーの表現は僕の書きたかった文です。―泣いたって、泣いたってーと続く倖うすい女を唄うサザンカの宿のイントロです。
  この歌を聞いた時に絶対いつか使うと決心した一文でした。一昨年、遂に決行しました。
 糞・糞と言うのも幼児期の癖でした。汚い言葉が大好きで糞だションベンだと言いまくりました。「くそう!」と書くと快感なので多用しました。28才の頃にもありますね。
 ま、そんなところです。このま、も好きな表現ですね。お里が知れましたね。

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2014年5月27日 (火)

純文学で散文と散文詩と人々の道

 散文と散文詩をまとめて詩的素因を表現の核とするという見解から「詩人回廊」を開始しました。このようなものを作って欲しいという人は、私が設計し実行を開始したときには、亡くなっていました。また、ここでブログの活用法を学んだひとが卒業していきました。いまは、自分でサイトをつくり1日300人以上の読者を得ているそうです。すごいですね。また、高齢による病気や、集中力の不足で、離脱する人も増えています。書きかけのを、北一郎さんに続きを頼んで下さいという人もいました。北一郎もやはり死にゆく道を歩むところで、なかなかそこまで手が回りません。
  散文や小説がなぜ詩なのかという疑問をぶつけてくる人もいます。基本には、小説での物語化は、必ず構造パターンに縛られます。この構造パターンは世界の神話に共通するものなので、村上春樹や宮崎駿などが世界中で受け入れられるわけです。この辺は、大塚英志の「構造しかない××」や「キャラクター小説の書き方」に詳しく出ています。私は、若い時期に企業のブランド戦略のためのコピーライトをしていましたので、企業の商品展開を物語化しました。何社も掛け持ちでやりました。物語には構造があるので、それにあてはまる事物を拾い上げ当てはめればよいので、いくつもできます。
 物語化は、人に広めやすいですが、一般化しすぎて、個人の純文学的個性は出せません。しかし、構造のないただの散文や詩ならば結構個性やインスピレーションが活かせるので、良いと考えました。文芸の商業雑誌で活躍する純文学作家たちは、面白くて芸術的な作品を書こうとするので、大変で、変なものも書きます。それも制約なので、面白がられなくても良いので、自分らしいものをかくのもいいでしょう。「詩人回廊」には「冥途の土産に書いておきます」という人もいます。

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2014年5月26日 (月)

林真理子さん「マイストーリー 私の物語」 

「私の母は作家志望だったので、私が作家になったことを喜んでいるのかなと思っていたら、実はそうでもなくて、自分だったらもっとすごい作家になれたのに、と。80歳をすぎてもそう思うんだ、と驚いたことがあります。昔から、母と娘の関係って一筋縄じゃいかないなと思っていたんです」。最近、“母の呪縛”を娘が告白する本が次々と刊行されていることには「やっぱり」と思ったという。
 「母親世代は抑圧された人生を送らざるを得なかった人が多いので、のびのび生きてきた娘に嫉妬の気持ちがあるんじゃないかと。今回はそういう関係も描いていきたいです」

自分の人生、本にしたい人とは-新聞連載小説「マイストーリー 私の物語」 林真理子さん特集(朝日新聞)

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2014年5月25日 (日)

個人文芸誌「風紋」第2号(枚方市)

【「夕凪エレジー」和田ヒロミ】
 中編小説1編だけが掲載されている。個人誌である。主人公の凪子(定年5年前に教師を早期退職)の母の八重は、八十歳を超えて、20分ほどのところで独り暮らしをしている。母親は娘の連絡が減ったのが不満で電話をしてくる。
 電話で物語が始まるこの出だしは、文芸作品には多い。それがミステリーなどの娯楽小説でないかぎり、そのほとんどが相当つまらない。この小説も、夫の定年退職、母と娘の関係、凪子の実父と義父の話など、下町の井戸端会議で噂の元になりそうな過去を交えた話が続く。もしかしたら自分史的な生活物語なのか、と思いながら辛抱して読む気になった。
 ただ道筋にそって揺れのない文脈の筆力で、相当の文章歴があるのは、わかる。それで、凪子と母親がどのような影響を与え合ったかが、訥々と語られる。凪子は母親を慰安するためにふたりで旅行に行く、旅行先で漁港を観光寄り道見物のつもりが、思わぬ天候悪化に見舞われ、母と娘が共にそこで人生の終末に入ることを予感させて終わる。
 読了して、娘の視点による母親の人生の追求するこの話が、たしかに文学作品であることを確認できるのである。文学にはこうして忍耐をして読まねばならないようなところがある。作品は、肉親が如何なる人生をたどったか、だけにしか言及がない。徹底して人間の肉親関係、家族の基本構造から離れないところに特性がある。絆の密度の濃さは現代では失われたものである。
 構成面では、まず先に母と娘が漁港付近で凍死していることを語ってしまう方法あるのかも。その方が、効率よく話が進んだような気がする。最後のオチがあるという安心感が良く働く場合もあるが、その反対に、語りに甘さが出るという、欠点もあるような気がした。隠し玉のようにしないで、ネタを明かして、その後をどう読ますか読者との勝負をかける気合いがここでは欠けている。それが残念。題名にエレジーとあるが、現代からするとこれほど密着した母と娘の人生は、心の孤独な時代の今、羨ましいほど。「母親と娘の長い幸福な生涯」的な味わいがある。文学というのは、感動すればよいというものだけではないと思うのだ。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2014年5月24日 (土)

作品の「読まれ方」体験記=外狩雅巳(投稿)

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   評論家・北一郎氏の作品評を収めた私の冊子が完成しました。八十部ほどを外部配布します。長年に渡り文芸同人雑誌に作品を発表しています。随筆・誌・小説等五十作以上公表しました。
  その中の数作には外部評が付きました。また、合評会では多くの同人仲間が感想を寄せました。文芸同人会に集う仲間は専門家ではないので印象批評やねぎらいなどが多いのは当然でしょう。
  新聞・文芸誌等の外部への送付に対しての専門家の作品評こそ書き手が切望し焦がれています。
  青年期は労働運動の中で創作を行った関係で「赤旗」「社会新報」「新日本文学」「民主文学」等に送りました。同人誌作品評欄に取り上げられることも有りましたが該当紙誌の方針での評でした。
  労働者の戦いを肯定的に描いたり、くじけない気持ちで書いた時には何度か褒められました。しかし、状況を悲観的に捉えたり、主人公の挫折に寄り添い過ぎた時は無視されていました。
  事実は革新的労働運動は広まらず、労使癒着の方向や成果主義が主流になる時期でした。中年期・四十代・五十代には公民館広告等で仲間集めを行い多様な人達と同人会を結成しました。
  ここでは、階級視点は理解されず人間探究描写が対象にされました。構成力も試されました。雑多な人達の集団なので内部評の向上を目指し書きました。面白く書く事を主眼にしました。
  それでも、過去の階級的視点からの書き方からは離れる事ができませんでした。労働運動から階級闘争への方向を学んだ過去は日々の実践でぼやけ出し妥協的になりました。
  そして六十代。年金生活の楽しみとしての文芸活動。混ぜ合わせた生き様が作品化されました。そこを見事に捉え見抜いたのが北一郎でした。彼の作品評は時代背景を織り込んでいます。
  著者が客観的に自作を眺める良い教材になります。時の制約が作者にどう書かせたか分かります。そんな北一郎作品評は二作目、三作目に進んで来ました。裸にされるスリルも楽しんでいます。
  創作と評論は相棒なのですね。勝手気ままに創作を行ってきました。やっと批評に巡り会いました。理解ある読み手が作者を育てた話は他人事として聞いていました。評論家を認めず生きていました。
  この機会を追い風にして、再度の創作人生に取り掛かりたいと思っています。
《参照:外狩雅巳のひろば

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2014年5月23日 (金)

「2014年外狩雅巳の世界」の少部数販売へ

 文芸交流会を結成し普及を目指す外狩雅巳氏の「2014年外狩雅巳の世界」が刊行されました。作者は機会があれば、交流会で収録作品「28歳の頃」の批評「28歳の頃の読み方」(北一郎)の批評もしてみたい意向のようです。「詩人回廊」北一郎の庭に一部掲載されています。北一郎は、サブカルチャー批評が社会経済批評の一部として論じられていることに影響を受けています。いわゆるアニメやライトノベルの興隆が、社会現象として把握した結果、納得しやすい形での評論がふきゅうしていることを参考に、外狩作品を経済現象の中の一部として捉え、資本主義社会での作者の置かれた位置に注目して論じています。
 このような視点ですと、書かれた時代を鏡として、読み取ればよいので、作品の出来の良し悪しはあまり問題になりません(よく出来ていた方がよいのではあるが)。なんでも評論の対象にできます。たとえば、同人雑誌に日常生活の病気や老化の嘆きや、ペットのことなど、ささいなエッセイであっても、その作者が何故それを書くことになったかをに注目すれば、論評ができるわけけです(実際にはしませんが)。そこに同人雑誌の繁栄が、平和な時代が長く続き、徴兵制もなく、定年まで勤められるような安定した企業が多く存在し、サラリーマン昭和元禄状況が維持された特殊要因によるーーなどという推論も可能なわけです。江戸時代の浮世絵が、後世の明治には大量にありすぎて、海外輸出品の包み紙として海を渡り、それがフランスの印象派の画家たちの眼にとまった、というようなことが、多種多様な同人雑誌にもあてはまり、人間が長い平和の中で、文化的に何をしてきたかの貴重な資料になるかもしれません。
 このような視点さえ持てば、誰にでもただの感想に終わらない評論ができると思います。「2014年外狩雅巳の世界」《参照:外狩雅巳のひろば》はそうした試みのサンプルでもあります。原則、外狩氏の所有のものですが、文芸同志会にも何冊か寄贈をしてくれました。そこで、発行先の当会では、オープン価格扱いで10冊程度まで500円(送料別)で販売します。参考に読んでみようかという方に申込み受け付けます。

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2014年5月22日 (木)

エンタメ小説月評(読売新聞)感想化した批評

  (文化部 川村律文記者)朝倉かすみ『てらさふ』(文芸春秋)。北海道・小樽の外れに住む2人の中学生がひねり出した“仕事”は、文学だ。表舞台に立つニコと小説を作る弥子は、「堂上にこる」という筆名で芥川賞を目指す。クラシック界のゴーストライター問題をスクープした週刊誌を出し、芥川賞・直木賞を実質的に運営する出版社からの、小説の代作をめぐる作品――。話題性もさることながら、文芸誌から候補が出る芥川賞を「感想文より倍率低いじゃない?」と言い切り、新聞の文芸時評は「感想(ていうか批評?)」と切り捨てる、向こう見ずな少女らしい言葉が並ぶ。
 想起したのは、1979年に同じ版元が出した筒井康隆『大いなる助走』だ。文壇や同人誌などを痛烈に諷刺ふうししたあの話題作と異なり、『てらさふ』では文壇など影も形もなく、小説は“手段”に過ぎないのだ。こんな時代だから、著者には「堂上にこる」の名で小説を書いて、文芸の世界にさらなる刺激を与えてもらいたい。掲載はもちろん「文学界」でどうでしょう?
エンタメ小説月評「どこか」へ向かう少女たち(読売新聞2014年5月22日)

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2014年5月21日 (水)

外狩雅巳「足払い」の作品評論について

 このところ「詩人回廊」に北一郎名義で、外狩作品ー「足払い」の評論ーを掲載した。2回ほど書いて,これ以上はネット公開するのを止めることにした。続きは、パンフレットにして紙に書いたものにすることにした。この小説は肉体を通して、資本主義の成熟したなかに、柔道の企業内戦士として、階級闘争を戦う姿勢みせている。このへんまでがネットでは無難なところと思う。これ以降は、肉体の視線で表現したら、性的な接触のあり方が問題になる。この作品でも、それが必然的に組み込まれていて、主人公の相馬と恋人との交わりの表現があるのだ。そこで、作者は19世紀~20世紀型の表現に独自の工夫をしている。それが果たして純文学的であるのかどうか、純文学と官能小説の親和性について、解説をしてみようかと思う。
 同じ「詩人回廊」で、伊藤が「文学フリマ」物語消費を書いている。文学も年代層に細分化している。そのことを考えると、年代が違っても、お互い共通の小説がある。夏目漱石、森鴎外などは、今でも読まれている。すると、古典の表現手法で創作をした方が持続性があるような気がする。

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2014年5月20日 (火)

デジタル化と本の市場=原石発掘「紙で出版」も

 セルフパブリッシングが始まり、多くの作品が世に出始めた。けれど、そこから優れた作品を見つけ出す鍵を握るのは、私たちネット利用者だという。著者も自分だけで本を仕上げ、宣伝もしなければならない。可能性は広がった。あくまで自己責任の上に。実に現代的な可能性である。
「デビュー」果たした十市社さん、「作家志望者にはありがたい場」
 「賞には落ちたが、精いっぱいやった作品だったので、生の反応がもらいたかった」。十市さんがKDPを選んだのは、ある新人賞に落ち、行き場をなくした作品が手元にあったからだった。それに手を加えた。
電子書籍 自作発表の場に、原石発掘「紙で出版」も》(読売新聞5月15日)
 最初の反応はツイッターで。絶賛され「返事を打つ指が震える」ほど感激した。やがて思いがけず東京創元社から紙での出版を提案されたが、1月ほど保留した。「紙で出して初めて、作家デビューだと思う。それには書き続ける覚悟が必要」と考えたからだった。「やるだけやろう」。そう決意すると、編集者のアドバイスを受けながら再度、原稿をブラッシュアップした。

 紙で出して分かったのは「今はまだ紙が優位ということ」。紙で出してから多くの編集者から執筆依頼が来た。とはいえセルフパブリッシングの可能性を否定しない。「不特定多数の人に読まれると思って原稿を直すうち、自分の何かが変わった。作家を目指す人には、ありがたい場です」(文化部 村田雅幸)

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2014年5月19日 (月)

文芸同人誌評「週刊読書人」(2014年05月09日) 」白川正芳氏

《対象作品》 渡邊久美子「うすあかり」(「あらら」5号)、勢陽本覚寺・釈恵照「天竺記」
「ほほづゑ」79号「特集 日本の食文化」より座談会、川俣時子「猫とわたくし」「短歌 猫の歌」(「北斗」604号)
創刊号2誌から「いづみ」より今日あした「散歩のつれづれ」、「ムジカ」より葛原りょう「カルマ、舞う」
三田村博史「詩 自立」(「文芸中部」95号)、大塚由香里「愛媛に嫁入り!」(「アミーゴ」71号)、吉田真枝「無灯火」(「全作家」93号)、熊谷直之「セカンドライズ」(「ふくやま文学」26号)、松村良「世代的文学史の終わりとハルキ・ワンダーランド」(「近代文学合同研究論集10号)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2014年5月18日 (日)

荻野央氏の同人誌作品評を作品紹介に転載へ

 これまで同人雑誌作品紹介のほとんどを伊藤(北 一郎)が行ってきました。当初は時代の流れの分析のフィールドワークの一環であった。それなりに時系列的、定点観測的な成果を得て目的は完了しています。その役目を終えても、読者の存在の証明のような意味づけと、当サイトの活性化のために行ってきた。ただ、ここえきて、WIn8シリーズにPCを変えたりしたので、使い慣れずに、サイトの日記が手間がかかります。自分自身も少しは創作的な作業に時間をとりたいということで、文芸交流会ののメンバーの外刈り氏や荻野央氏の参加をお願いすることにしました。荻野氏は掲示板「関東文芸同人誌交流会」のサイトに寄稿している。運営者は文芸思潮」(アジア文化社)五十嵐勉編集長なので、両氏に了承をいただいた。今後、作品紹介に適合した作品評がされば、ここにダイジェストして掲載します。荻野央氏は、詩にも造詣があるようで、創作評は少ないようです。また、方向が作者に向けて書いている様子もみられます。それでも、紹介するのには適合しているように思える部分もるので、活用させていただきます。スタンスのずれは何とか調整してみましょう。

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2014年5月16日 (金)

外狩雅巳「足払い」を評して=北一郎の文芸批評論(4)

  外狩雅巳の短編小説「足払い」の評論を「詩人回廊」肉体が語る「足払い」(外狩雅巳)を連載している。先月に参加した「文芸交流会」では、小野さん作品について、多く時間をかけた。外狩氏と話合ったのだが、個々の活動方向で異なるものの、当会ですでに実行していることと重なるものもある。これまで、「文学フリマ」の傾向を観察してきたが、そこから年代層による文学の形の違いが明確に存在していると、自分は判断した。その現状分析をもとに、活動をしていくこと考えている。現象的には、それは活動の拡大ではなく、身近なところに縮小するということになる。

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2014年5月15日 (木)

同人雑誌季評「季刊文科」第62号2014年4月28日発行/ 谷村順一「二人誌の魅力」

谷村順一「二人誌の魅力」
「30」(7号 東京都江東区)より中村徳昭「福井青果主人」・石田出「単位屋さん」、「半月」(第2号 山口県)より錺雅代「庚申(こうしん)の松」「捜しもの」・瀬戸みゆう「あの日」
●〈同人雑誌から〉
「書き続けて四十年、その先」石井利秋、「同人歴半世紀」今村有成(「詩と眞實」編集・発行)
●同人誌からの転載は以下
「母の家出」向山タヱ子(「文ノ楽」14号より)、「つけぶみ」森岡久元(「姫路文学」127号より)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2014年5月14日 (水)

下村敦史さん9回連続で応募し第60回江戸川乱歩賞に

第60回江戸川乱歩賞(日本推理作家協会主催)の選考会が12日開かれ、京都府の下村敦史さん(32)の「無縁の常闇に噓(うそ)は香る」に決まった。副賞は1千万円。応募総数は349編で、最終候補5作から選んだ。
13日に東京・音羽の講談社で記者会見を行った。選考委員の有栖川有栖氏は、受賞作について「(最終候補の)相対評価ではなく、絶対評価でA」と絶賛。今野敏理事長も「自信をもって世に出せるものを送り出せた。ぜひ期待してほしい」と話した。 受賞した下村氏は京都府出身。これまで同賞に9回連続で応募し、最終候補にも4回残ったほどの実力派。「喜びよりも戸惑いのほうが大きい。向上心をもって書き続けたい」と話した。同賞受賞作以外に未発表の小説が30編ほどあるという。 受賞作は8月上旬、講談社から刊行。

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2014年5月12日 (月)

伊坂幸太郎『マリアビートル』が2014「大学読書人大賞」に

2014「大学読書人大賞」に伊坂幸太郎『マリアビートル』が選ばれた。同賞実行委員会、出版文化産業振興財団(JPIC)の主催。《参照:「大学読書人大賞」》  「大学生にぜひ読んでほしい本」として選ばれた最終候補作5作を、大学の文芸サークル代表者5人がプレゼンした。大賞の『マリア~』は法政大学もの書き同盟の砂場花観さんが発表。同書のテーマ「人をなぜ殺してはいけないのか」について「いつの間にか腰を据えて読んでいた。こんな贅沢な時間の使い方が出来るのは今、大学生だけではないのか」とアピール。2位の『富士学校まめたん研究分室』(ハヤカワ文庫)と1ポイント差の僅差で、大賞となった。 6月下旬には、贈賞式と大賞の「マリア~」の著者、伊坂氏を招いてのトークイベントも行われる。

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2014年5月11日 (日)

【文芸月評】5月(読売新聞)「大江健三郎賞」第8回で終える

作家の大江健三郎さん(79)が、一人で選考する文学賞「大江健三郎賞」を今年度の第8回で終えるにあたって4月18日、最後の受賞者の岩城けいさん(43)と対談した。
 報道関係者だけに公開された場で、大江さんは最近、夏目漱石の『こころ』を改めて読み、「明治の精神」が書かれていることに感銘を受けたと明かし、加えて言った。
 「文学は時代の精神、その時代に生きているということを表現している」
【文芸月評】時代に巣くう孤独感 人の定義づけ溶けゆく
 漱石には及ばなくても、今月の文芸誌は2014年の気分が刻まれた作品があった。
 木村友祐さん(43)の「聖地Csセシウム」(新潮)は、東京・中野に住む33歳の主婦が、原発事故による福島の居住制限区域にある牧場「希望の砦とりで」に向かう物語だ。被曝ひばくして現地に取り残された360頭の牛を飼う牧場主の活動をフェイスブックで知り、ボランティアとして手伝いに訪ねた。
 ピッ。ピッ。……ピピッ。高い線量を示す放射線測定器の電子音におののきながら、牛舎に落ちたやわらかくて黒い粘土のような糞ふんをシャベルですくい、片づけ始める。
 本作は実在の牧場を取材しており、活動を記録した針谷勉『原発一揆』(サイゾー)を参考文献に挙げる。だが同著と比べると、「聖地Csセシウム」は事実より、牧場に関わる人物の心の動きに重きを置く。
 夫との不和の反動で牧場を理想視したものの、生身の牛を扱う現実の厳しさを知る主婦のたじろぎ。活動家の風貌もある牧場主の意地と絶望。自己のPRに使うタレント議員の底の抜けた軽薄――。
 以前は普通に営まれていた牧場が、原発事故を境に特別な意味を持つ場となり、関わる人々は様々な事情を抱え、互いに完全には理解できない「孤独」を抱えるようになった。小説の定法に沿って組み立てられてゆく本作をたどるうち、この孤独は心の傷として、私たちの内部にも巣くったものだと不意に思い至る。


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2014年5月 9日 (金)

文芸同人誌「北狄」366号(青森市)

本誌は創刊60週年で、366号というからよくも続けたものである。この間に、どれだけの商業文芸誌が刊行され姿を消したか? に思いを馳せると非商業の文誌同人誌の役割の重さを感じる。
【「長春物語」笹田隆志】
 2010年に中国・吉林師範大学に日本語会話と文章の講義に良一が滞在した四ヶ月のレポートである。中国といっても広い。全体把握は無理で、こうした地域的な交流報告は、国民的相互情報交流に役立つと思う。日本と中国は、反日、領土問題、安倍首相の靖国参拝で国がギグシャクしているが、国家と諸国民とは同じでない。国家は権力、利権のために、まず国民の一番弱いところを犠牲にする。どの国であろうと、国益のための戦争は諸国民の利益にならない。メディアの国家の報道の煽情の意図に乗らないためにも、こうしたレポートは意義がある。
【詩編「月に沈む(二)」倉谷ひろたか】
 東日本大震災が直接的な題材となって、宮沢賢治の世界とも連結させて、現実の重みを受け止めながら、それをイメージ力ではねかえそうという、読み応えのあるものになっている。リフレインと行替え、飛躍性など詩ではあるが、全体的には、散文詩に近い。このように詩と散文の枠を超えた作品は、昔からあるが、現代ではもっと多くても良いように思う。
 発行所=青森市安田近野435-16、北狄社。
紹介者「詩人回廊」北一郎


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2014年5月 8日 (木)

市場拡大でなく読者の拡大=北一郎の文芸批評論(3)

  同人誌の市場化という面では、サブカルチャーとして隆盛する漫画のコミケがその地位の確立をした。文学の同人誌については、市場主義において、縮小傾向にある。しかし、どちらもカルチャーである限り、勝ち負けや成功失敗の基準には適合しない。文化力は歴史であり、継続性だけが問われるのだ。非市場システムのなかで、ろいろな試みがある。ネットでの「Stray Cat 創作文芸支援と同人誌感想 投稿サイト」なども出てきた。過去から、直近の「第18回文学フリマ」の活動が見える。市場の拡大と読者の拡大とは同じ面もあるが、異なる場合もある。原理的には、読者の拡大が大きくなると市場性が生まれるということになる。

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2014年5月 6日 (火)

第18回文学フリマに参加。力の抜けた店づくりでも成果は順調

   第18回文学フリマに当会も参加した《参照:文芸同志会のひろば》。いつもは山川豊太郎氏が、早く行って自分は10時過ぎの店開き準備の時間に、行くのだが、朝の地震で目が覚めたので、そのまま会場に行って、設営の手伝いをした。そうしたら、人手が足りない傾向で、受けつけに、人がいない。チェック役を兼ねてそこに立ったら、施設内について質問者がたびたびきて、前回の状況と同じであろうと、その見当で応えるなど、結局自分のブースの宣伝ができずに遅れをとった。山川氏は出店者の整理でやはり、人手不足だったらしく、出店を作れず。本を並べるのが遅れた。事前には、雑誌向けに報道記事をつくって発表する企画を持っていたが、疲れもあって簡単に断念する。
   それでも隣のブースが「文学フリマ非公式ガイドブック・小説ガイド」《同編集サイト》通巻5号を販売していた。話をきくことができた。まず、推薦者がいて、それに対応した評定者が存在するという、システムが面白い。
  昔からの文芸同人誌では「銀座線」の石原恵子編集長にあいさつ。同誌は作家・笠原淳氏(1959年「杢二(もくじ)の世界」で芥川賞受賞)を師としており、笠原氏は現在も指導されているそうである。文学フリマの第1回の開催のときからの参加同人誌である。なぜ、知っているかというと大塚英志氏からPRフライヤーをもらって文芸同志会から参加を勧誘したためである。現在、「詩人回廊」に「文学フリマ物語消費」を連載中なので、おいおい詳細をかくつもりです。

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2014年5月 4日 (日)

同人誌「初めての法學」Ⅰ(東京)

 本誌は2013年11月の第17回「文学フリマ」(東京流通センター)で販売されたものである。ぜひ紹介したいと思いながら、5月の18回「文学フリマ」の時期になってしまった。これは法政大学もの書き同盟と國學院大學文藝部の合同企画出版である。大学生たちの同人誌なのだ。
【「他人事」猫乃りんな】
 おれという若者の語りで、アルバイト仲間のテツオとの交際の姿を描く。テツオはすべてのことにケチをつける。それに対しおれは、同調をしたふりをしながら、内心では冷ややかに彼をみている。それというのも「テツオは高卒のフリーターで、おれは大学の二年生だった。奴はおれより二つ年上だが年齢にそぐわない老けようをしていた。(中略)どこからも生気が感じられない。一目で人生の敗北者とわかる顔つきだった。つまりおれとは正反対の人間だ」と思っているからだ。
 そしてテツオが臆病なくせに、他人を見下してあたかも自分が優越しているような言動を、仲間にそれとなくあげつらって笑いの種にしているおれなのだ。その後も、お互いに相手の立場を自分の立場の優越性を示す出来事としてしか考えない人間関係が描かれていく。テツオの演技的な自己優越性を誇示する言動に共感はない。しかしうわべだけは友人であるのだ。おれの仲間たちは、そのような関係しか出来ていないことを暗示する。テツオについて、その虚勢の姿勢や言動をおれは陰で仲間伝えて揶揄する。それも仲間に自分の優越性を誇示するためだ。テツオは、通り魔事件が起きたりすると、犯人に同調した心境を語る。実際にナイフを持ち歩いていることがわかる。テツオは学歴コンプレックスから大学生にケチをつけている。おれは、内心でそういうテツオを軽蔑する。テツオはその態度の悪さから、店に来た客に殴られるのをおれは冷やかに傍観する。テツオはおれに「他人事だと思いやがって、いつかお前だって」という。
 テツオは、おれの眼の前から姿を消す。おれは卒業して就職をする。そして、ある時、おれはテツオが惨めな姿でいるのを町でみかけて、仲間と彼を嘲笑する。テツオはナイフをかざして、おれを刺しに襲う。しかし、寸前で仲間が阻止してくれ、助けられる。おれは「これツイッターでながそうか」とかいう。仲間が、なにを言っているのだ、お前はいま殺されかけたのだぞ、という。しかし、おれは、自分の身の上にそんなことが起こるわけがない、と思うのだ。
 ここには作者の現代社会への違和感が表現されている。自己中心のジコチュウからタニンゴトへの微妙な変化。我々は水族館の厚い壁のむこうの魚をみて、リアルに思っているが、現実には存在する世界が異なるのだ。絆や連帯の強調される社会になったのは、それがもう存在しないからなのではないか、など考えるヒントを与えてくれる。文学と同時に哲学でもあるので、いまだに手元に置いている。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2014年5月 3日 (土)

西日本文学展望「西日本新聞」(4月30日朝刊)長野秀樹氏

題「介護現場の女性」
渡邊弘子さん「鳥と話す日」(「南風」35号、福岡市)、岬龍子さん「間(あわい)」(『紅雨』、花書院)
「群青」15号(福岡県宗像市)より大垣堅太郎さん「夢語り」・諫山男二さん「棄民」・岩井英司さん「『永遠の0』小説と映画と私の場合」・今村亮さん「マンザナー巡礼画家 ヘンリー福原」・川田一さん「他人史 川地伝」
船越節さん『霊視の刻(とき)』(九州文学社)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2014年5月 2日 (金)

顔の見える文芸交流会に参加~同人雑誌で書く意味になるか

P4290030_z 町田市の公民館を会場にした詩誌や小説同人誌の文芸愛好家の集いが、開催され、それに参加した≪参照:外狩雅巳のひろば≫。これは、それぞれの発表雑誌の枠から離れて、顔の見えるところ意見の交流をしようというもの。今回は小野さんの小説や、町田の詩人蒼野しほさんの詩作品「感性」についての印象を話し合った。
 皆さんの話を聞いていると、話の噛み合わないところも出た。それでいいのだが、他者の作品をとやかくいうのであるなら、やはり自らも作品を提示してあれば、多少のずれはなくなるかも知れない。
 これまでは、団体機関誌紙に経済展望や解説を書いてきた。十年ほど前は、たまに手が空くと、読み物を娯楽系の雑誌やスポーツ新聞のコラムなどを投稿というか、直接編集部にかけあっていた。そこでは、面白いか面白くないかが基準で、はっきりしている。「これは、いいんですが、惜しいですね。いまひとつ物足りないですね」と言われたら、すぐ諦める。「いまひとつとか惜しい」というのは、断る言葉である。良くないのだ。それに対し「ここをなんとか直せませんか」と言われたら、採用しても良いという意味にとる。その場で、「では、こうしたらどうです」とその場で修正することが多かった。
 これに対し純文学は、基準がない。相当つまらないものでも良いものは良いらしい。ただ、そこに共通するものは、「個人的なこだわり」を徹底的に追及するということであろう。
 そのため、純文学の私小説優位にあるのは、生活のなかのこだわりを見つけやすく、誰にでもわかりやすいということである。いま著名な私小説作家のものを改めて読むと、片や風俗の女の態度がどうのこうのと、こだわれば、片やは文化人として妻をともなって旅に出て、であった出来事がどうのこうのと、なんとも性的な欲望(わたしが「おまんこもの」というジャンル。娯楽小説と同じだ)に絡ませてくだらないことを書き連ねる。人間がいかにつまらない存在であることを、身を持って証明する話ばかりだ。これは反教育的で、たしかに文学は道徳的な危険をともなうところがある。
 自分は、ひごろから頭が変だと思えてならない。家族からも高齢者精神科で診断を受けるように迫られている。人間にはこのような頭の変なやつもいる、という証明になるようなものを書いて文学賞に応募してみようかと思うのだが…。まだ続きます。

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