文芸交流会で話したこと
文芸交流会に参加してほしいということを会員の外狩氏に頼まれて、出来る範囲で個人支援をするという自分の方針から、3月29日に町田駅近くの会場の出向いた。≪参照:作家・外狩雅巳のひろば≫
外狩氏は交流会を拡大するために、その方向性を決めるのが主目的で、その合間に交流の事例として、何か話して欲しいということである。参加者のなかに作品紹介した「相模文芸」の吉野さくらさんが居た。そこで、時間があるというので、作品「あの日あの時」を、エッセイからもっと繊細で美的な文芸作品にするには、どうしたら良いか提案した。このエッセイには、自分史の一部としてのものとあるので、事実が基本である。そこで記憶を軸にした文学が存在すること。文学化するには、もっと詳しく、記憶の中の気分を細かく表現することでストーリーがなくても文芸作品になり得る構成になっていることを指摘。
庭に吹く風、陽の移ろい。それらを思い出してみれば、必ず気分が付きまとっているはずなので、その気分だけに焦点をあてて文章化することを勧めた。作者は、茶道に詳しいのようなので聞いたら、先生もしているそうである。その心得をなぜ詳しく書かないのか、と質問したところ、以前に茶道の専門的な話を書いたら「わからない」と言われたので、簡単にしたという。そのような作風に興味のない人を相手にして書いているのでそうなるのであろう。しかし、元来は文芸が芸術であるためには、その道の専門家が間違いないと信じるような本物を提示しないと、成立しないと思う、という意味のことを述べた。あと、プロになった人は編集者その才能を認めている。そのような特別な人と同じに、何の対策も持たずに書いて読者を納得させようとするのは、自分には天才があるとういうことを前提にしているに等しい。しかし、自分には才能がないと自覚すると、ではどうするかと対策を考えるのではないか。その工夫の仕方が個性になるのだと思う。このような話は、私自身が、書き物をしており自問自答のようなことを話すにとどまる。
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