外狩雅巳「大地の記憶」(6)解説・政(まつりごと)の要(かなめ)軍事なり―天武天皇
軍事力が国力だったのは歴史を見ればわかります。強力な軍事力は内政にも外交にも効果があります。
弱肉強食の世界情勢に対抗して国家の自立を守るのは軍事力が有効な時代は長く続いていました。
小さな日本列島に国を樹立しそれを守り続けた人々は短期間で強力な国家を作り上げる事に長けています。
五世紀頃に建国し百年ほどで東アジアの覇権争いに参加した手腕は戦後復興の速さに引き継がれましたね。
六六二年白村江で新羅と唐の連合軍に敗れても直ちに内政充実に切り替える器用な政策転換にも長けています。
国家整備を先進国の中国の制度に学びました。漢字を起用に日本語に応用し律令国家体制も応用しました。
七〇一年の大宝律令を整備し手直しして20年後には養老律令として完成します。軍防令はこの中にあります。
軍隊の基本法です。五人が基礎人数で伍長が率います。二つ合わせて火にします。五火で隊になります。
その上には旅や軍もあります。軍は一万人程度で将軍が率います。三つ合わせた三軍は大将軍が率います。
兵器も充実整備しました。弩という大きな弓は大砲のような威力が有ります。鎧も単甲や兜を装備します。五月人形の武者が着ける鎧は鉄片を綴り合せ動作に影響を少なくした優れものですが単甲は旧式です。足軽が着ける胴丸のようなものです。兜も前立てはありませんが可動式眉庇や首筋防御のしころは有ります。
勤務体制も規則正しく決められ田装備や宿舎もあります。訓練も厳しく、兵器や部隊行動を習熟させられます。
その費用は基本的には国家が持ちます。兵士に食糧の持参などの負担はあるものの精勤すれば隊長になれます。
首長の私兵が基準の蝦夷軍に対しては団体行動では強く用兵も戦術も優位であるはずなのになぜ負けたのか。
「えみしはひたりもものひと」とうたわれた百人力の暴れ者で個人戦に長け死にもの狂いで戦う蝦夷軍です。
圧倒的な兵力差での団体戦が出来ないとなかなか勝てないので味方になった蝦夷軍を手先に使うのが一番です。
降伏させて九州防衛隊にしました。そこに大和から武装移民を入れて耕作地にしてしまい大和国家の地にします。
丸太を立て並べてた砦を拠点に周りに住ませ村を作ります。722年に百万町歩開墾プロジェクトを作りました。
大将軍の紀古佐美は参議と言う内閣の大臣なのです。国家的な一大事業としての東北大和化を進めたのです。
リベンジで名を知られる坂上田村麻呂は征夷大将軍です。家康も征夷大将軍です。蝦夷征伐こそ国政の要です。
■参考≪外狩雅巳のひろば≫
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