プロレタリア文学手法としてのハメット「血の収穫」
昨年から私は外狩雅巳作品の解説を書いて一部発表をしている。外狩氏が会員になる前に、作品を送ってくれていたので、その時点から作品に気をとられるものがあり、関心があった。私自身は、マルクス経済学を研究しており(マルクスス「主義」経済学ではない)プロレタリア文学をかなり読んでいた。外狩氏がその傾向のエッセンスを感覚的に把握しているのに、内心で正直驚いていた。私には理論があるが、彼のようなセンスがない。文芸作品はセンスがすべてである。そこで、会員になるとを勧めたが、彼は自分なりに活動の仕方があって、同意しなかった。それが、昨年になって何故か入会を承諾してきたので、早速、その宣伝に努めている。
プロレタリア文学には、歴史的に自然主義文学の延長線上にあり、海外では米国でのヘミングウエイ、ハメットのようなハードボイルド文体に、フランスではノワール小説とかなんとか言ってボリス・ヴィアンの「墓にツバをかけろ」などを生んでいる。ハードボイルドの文体は、外面描写によって、状況を説明するもの。元来、人間関係において、他人の心の中を覗くことができないので、外側から判断するしかない。唯物論的にはそれが正しい表現方法なのだ。日本では、葉山嘉樹、小林多喜二が有名だが、横光利一、野間宏とその手法の追求者が続いている。とくに戦後の野間宏「真空地帯」は、ドイツでも日本の軍国主義の研究に参照されていたときく。
ハードボイルド小説のハメットは、自分の体験をもとに架空の町を舞台にした「血の収穫」を書き、米国の共産主義団体に参加し、政府の秘密機関に狙われていた。
外部描写の見事さに世界の作家をあっと言わせた手法の例がある。住民の行為をもって街の性格を表現したダシェル・ハメットの「血の収穫」の冒頭部分。探偵のおれが初めて訪れたボイズンビルという架空の町での場面。
――最初見に見かけた警官は、無精ひげをはやしていた。二人目のやつはみすぼらしい制服のボタンがふたつもはずれていた。三人めは、この町の目抜きの二つの大通りブロードウエイとユニオン街との交差点で葉巻をくわえたまま交通整理をやっていた。その後は、警官を観察するのはやめにした。―――(田中西二郎訳・創元文庫より)
このことによって、この町が警察からなにから堕落している無法地帯であることを、見事に表現している。文体が内容表現の目的意識にぴったり寄り沿っている。
しかし、時代の変化は別の表現法に変わっていく。≪参照:村上春樹作品のもうひとつのハードボイルド風手法≫
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