東京新聞紙上文学論と意味の表層判断
東京新聞の三沢典丈記者が「日本文学は隆盛か」という表題で、芥川賞受賞作に文学的成果が乏しい、という意味のことを書いたら。すると、文芸評論家の清水良典氏が同紙に、日本文学は豊饒なのに、評論分野の怠慢がなだ、と反論した。これに対し同紙の名物コラム「大波小波」では連日、コラムニストがそれぞれの意見を述べている。これだけ文学論に関する情報を提供するのは東京新聞ぐらいのものだ。
はっきりしているのはこうした問題意識を気にしない人と、気する人がいるということだ。なぜそうなったのか。
以前の芥川賞作品を読めば、その時代における生活の共通の意味と価値を知ることができた。誰でもそれに目を通しておけば、現代の意味と価値の方向性があらわれていた。
その大方は、終身雇用制のサラリーマンのセンス向上に役だっていたのである。
しかし、現代は芥川賞で話題になった作品を読んでいれば、受動的に現社会の「意味」と「価値」を与えてくれなくなっている。
また、そうした意味を追求しても、生活が安定しているサラーマン層が少なくなった。切羽詰まった生活をする派遣会社の社員が、落ち着いて文学を味わう余裕などない。どうしたら明日を過ごせるかというノウハウの方が知りたいのだ。
そうなると職業作家からすると、世の中を見る上で価値観を共有する場が欲しくなる。また啓蒙活動によって、小さな運動を大きく広げることに意義がでてくるのであろう。ただ、最近の日本人の戦争への敷居の低さには驚くばかりだ。梅崎春生、大岡昇平、野間宏などの戦後文学における戦争の無意味さを訴えた作品は、遺産にならないらしい。文学には社会的な限界があることがわかる。
≪参照:「ゲンロンカフェ」と「飯田橋文学」作家たちと読者の交流会活動≫
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コメント
小説を読む層は時間的に恵まれた者だろう。学生とか。
しかし、派遣で働いていたり、昼夜かけもちで働いている低所得者は、小説など読む時間など持てないのが現実のようですね。
また、若者が保守化していること、ゲームやその他活字文化より映像文化に傾いているのも小説の愛読者が減っている原因でしょう。
倉本総が語っていたが、講演会で原発をどう思うか、聴衆に挙手で応えさせたら、20代の青年の九割は原発賛成、これに対して高齢者の九割は原発反対だったという。
「若い人が原発に賛成なのは、電気がなくなったらどうなるか不安を覚えるからだろう」
最近の若者は厳しい現実を嫌がる傾向なのでしょう。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2014年2月28日 (金) 01時23分