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2014年2月16日 (日)

霞んで見えない時代に=北一郎の文芸批評論(1)

 会員の外狩雅巳氏に「28歳のころ」という短編があって、その評論を書いた。その一部を「詩人回廊」北一郎の庭に発表している。本当は長い解説ができるのだが、本編作品と同じくらい長いのではバランスが悪いので、そこそこでまとめた。
 およそ同人雑誌作品において、折角書いた作品なのに、理論的にその意義を解説しないのはもったいないことだ。これは会員特典としての合意で行うもので、会員外の作品紹介とは全く異なる。文芸作品とただの作文とを区別して論じるのも、会員に対してのみである。作文論というのは、自分の経験で小学校時代に、国語で作文ををしなさい言われ、なにも書くことなどないので、先生にそれを言った。すると、朝起きてから、やったことを順繰りに書いて、規定の枚数に達したら、書いていることについて、どう思ったかを書きなさい、と指導された。そして、どこでも最後「と思った」と書けば形になると教えてくれた。要するに文法習うための訓練だったのだ。たしかにそれで作文に困ることはなくなった。しかし、それを知ったがゆえに、自分が何も考えることもしないで、ただ出来事を書いて、思ったということを記しているのではないか、という恐怖心をもちはじめた。そこから来ている。出来事を書いて、どう思ったかを書いて小説の神様といわれている作家がいるが、それは特殊な事例である。これが文学?と疑問を提した三島由紀夫に同感する立場だ。
 現代は、小説が消費物となり、読み捨てられることに慣れているようだ。文化での消費とは、それが未来の人間文化精神の栄養にならず、コンビニの賞味期限切れ商品のように捨てられるということだ。
 それでも、作品をテクストとして読めば、脱構築視点など、あらゆる角度からの点検ができる。歴史的産物の「書きモノ」として検証すれば、マルクス思想的批評ができる。作者の経歴から見れば、自伝や人生体験と結びつけて批評ができる。何も手掛かりがなければ、それが書かれた文脈から心理分析的批評もできる。
 今回は、作者外狩雅巳氏が「蟹工船」を必要以上に重視しているので、それが歴史的な文学の発展段階のひとつにすぎず、別の社会的な流れを読む必要性を書いた。
 簡単にいうと、人々は、社会が(直線的)に進歩発展するであろうから、自分の足りないものが満たされ、きっと幸福になるであろうと、社会変革の前進を信じていた。ところが何時までたっても欠乏感がなくならない。失望と閉塞感の時代に入った。外狩作品は「理想」に向かって進むことへの郷愁にとらわれた人間を描いている。
 世界の文化思想の流れは、その閉塞感に満ちた社会構造からの逃避、逃亡願望が生まれて来ている。日本の外狩氏は、近作で反体制活動での逃亡者の小説を書いている。彼の現状にたいする肌感覚は優れている。理屈でなく、感じで書いてそれであるのだからセンスが良いと思う。ただ鋭い肌感覚は詩のイメージの「私」の実感であって、それだけで散文を書いても、本格的な小説にはならない。
 先日、静岡県に住む、島岡明子さんから手紙をもらった。文芸同志会の発行物のほとんどを買ってくれている作家だ。その中で「私は、小型ジレンタンティズム作家で(大きな声でいうほどのことではないが)あえて自称する時はA級でなくB級で楽しく生きたい。“無用の用”なるコトバが大好きな私と呟いている」とし、また「外狩さんの世界ガイドにあった、『散文芸術』という同人誌に作品を書いていたそうですが、私はその編集委員をしていました」としている。

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