« 外狩雅巳「大地の記憶」(6)解説・政(まつりごと)の要(かなめ)軍事なり―天武天皇 | トップページ | 外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(7)敗退、岸辺の惨状 »

2014年2月26日 (水)

霞んで見えない時代に=北一郎の文芸批評論(2)

 私の文芸に関する姿勢は、もともとは趣味の詩からはじまっており、あとはコピーライター、ジャーナリズムの世界で文章履歴を積んできた。であるから、文芸批評をしても、おそらくその延長上でしかないでろうことは自分でも見当がつく。
 そこに、会員の外狩雅巳氏が、同人誌「相模文芸」第25号(相模原市)に【「大泉黒石 著『おらんださん』の中の「ジャン・セニウス派の僧」をめぐって(二)」中村浩巳】というのが掲載されているので、それを論評してみないか、という誘いがあった。
 私は、同人誌作品は「作者が書いたことそのもに、ご褒美をもらっている」という高橋源一郎氏の言葉に全面的に賛成する。私はしかし、こうした記録物にまったく興味がない。それでも、そうだからといって、論評出来ないものではないのではないか、とも思う。そこで読んでみた。すると、これはまったく知識人のディレッタンティズムのさいたるもので、一般人には知らなくてもいいようなヨーロッパの史実の記録だとわかった。断片的で、扱いにくいものだ.。これは外狩氏の北一郎に対するテストでもあるな、とも思い、批評力の限界をお互いに認識し合うのは良いことであろう、考えた。
 そこで、まるで知識のない事柄なので、フリー百科事典でまず関連事項を調べた。この作品に関連する事項には、次のようなものがある。
(1)作家・大泉黒石(1893~ 1957)、ロシア文学者。父がロシア人。母が日本人。「国際的な居候」と自称。アナキスト的思想を盛り込んだ小説『老子』『人間廃業』などのベストセラーがある。
(2)ジャン・セニウス派とは、ヨーロッパでの神学論争をし迫害をうけた思想の一派。当時のフランスでジャンセニスムに傾倒した著名人の中には哲学者ブレーズ・パスカルや戯曲作家ジャン・ラシーヌもいた。パスカルがジャンセニスムに傾倒していたことは有名。ジャンセニスムは悲観的人間観、特に自由意志の問題をめぐって激しい論議になった。ローマ教皇庁では神学者たちがこれを慎重に検討した結果、『アウグスティヌス』に含まれる五箇条の命題を異端的であると判断したため、インノケンティウス10世の回勅『クム・オッカジオーネ』(1653年)がジャンセニスムを禁止した。
(3)アウグスティヌスは宗教家で著書「告白」は生前から読まれていた。本の前半は、罪に溺れた生活を送った後、キリスト教に接近する話や、盗みを働いたりギリシャ語の勉強に意欲が湧かないなど、彼は不都合な事実を隠さず正直に書いている。しかし彼は単なる遊び人ではなく、当初はマニ教に関心を寄せるが、ローマでネオプラトニズムに出会って決別、その後に哲学書を読み漁り、勉学に熱中し『神の国』[1]や『三位一体論』といった大著を残した。母に反対されても階級の異なる女性を大事にし続けた(しかし後に信仰の邪魔になるからといって捨てた)。友人の死に直面し自らの死を恐れ始める心境描写、といった事が中心。後半は時間論、聖書の解釈についての議論、神が天地創造の前に何をしていたのか、について書かれている。この著作はカトリックやプロテスタントだけではなく、デカルト、カント、ニーチェ、20世紀ではハイデガー、ウィトゲンシュタイン等多数の哲学者に影響・考察を与えた。
 繰り返すが、これれらは、この作品に書いてあることでなく、私自身が作品を読むため調べたことである。

|

« 外狩雅巳「大地の記憶」(6)解説・政(まつりごと)の要(かなめ)軍事なり―天武天皇 | トップページ | 外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(7)敗退、岸辺の惨状 »

コメント

私の「エッセー」は、解題者が「おらんださん」をかなり飛躍して偽装反戦小説ときていしているので、その飛躍を埋めて解題者の主張が正しいことを推理しながら証明しようとしています。ですからまともな研究ではありません。それに私はもともと歴史には興味はないのです。ですからわかったふりをして歴史や宗教観念を書くのに大変苦労しました。それがディレッタンティズムといわれるゆえんだと思います。申し訳ありません。
考えていただきたいのは、なぜ昭和16年の日本の状況の説明に17,18世紀のヨーロッパの、それもベルギーやフランスの状況が必要なのかということです。

投稿: 中村浩巳 | 2014年4月 7日 (月) 12時28分

『キツネの戯言』を読む。

このエッセイの結論は、『芥川賞』受賞作品への厳しいお小言である。芥川賞受賞作品と直木賞受賞作品との差が、限りなくゼロに近づいたという嘆きでもある。筆者は言う、「世の中の進展に比例して作品が劣化している」と。確かにそれは的を射ていると思う。さらに、「作品のタイトルも賞とはあまりにも似つかわしくない」と。作品の評価もタイトルを見ればほぼ可能だということは事実である。読者はタイトルを見て、身構えていたはずだ。
世の中が進化すれば作品も進化する。進化はエントロピーの増大を意味する。だとすれば劣化とみられることも仕方がないのかもしれない。しかし、果たしてそれだけなのか?大いに疑問が残る。主宰する出版社が両賞に直接対峙できなくなっていることも見落としてはならないだろう。
過去を振り返ると、暗喩的に言えば、直木賞作品で、他人の悪口、噂を思う存分言って、芥川賞作品でそういう軽薄な自らの言動を反省する、こういうパターンだったと思う。それが、最近は芥川賞作品でも、自らを反省することなく、他人の悪口や噂を言い続けることができる。つまり、現代の読む側は自己反省のよりどころを失っているといってよい。  
このことは文学が社会進化への役割を果たしていないことを意味する。作家集団は政治的にも思想的にも弱い集団である。すぐに「転んで」しまうと言う宿命的な業を持っている。しかし、その弱さの中にありながらも、絶えず社会へ発信してきた。今、この発信が限りなく弱まっている。筆者の苛立ちが眼に見えるようである。

投稿: izukana | 2014年3月 8日 (土) 05時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 外狩雅巳「大地の記憶」(6)解説・政(まつりごと)の要(かなめ)軍事なり―天武天皇 | トップページ | 外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(7)敗退、岸辺の惨状 »