「今日もまた時は流れる」 勝畑耕一
今日もまた時は流れる 勝畑耕一
朽ち果てた廃屋が好きだ/落ちかける瓦、ペンキのはがれた窓/ポストからはみだすチラスの束/荒れ果てた庭に、我がものの顔の雑草
失われた家族の記憶など、もう誰も知らない/多くの夢が描かれた日々もあっただろうに/いまや天を目指し、樹木に巻きつく蔦や蔓
所有権をめぐる骨肉の争いでもあるのか/係累も遠くに去り、もはや途絶えたか/建屋の空間は、廃屋への時間に追い抜かれる
たかだか五十坪、時価で数億円と言われても/蔓は電住や隣の電線にまで延びて/かつての生活のぬくもりはすでに失せ去り/ただ今日もまた時は流れる、誰も何も思わず
詩誌「騒」96号(2013 年12月)東京・中野「騒の会」
読み人「詩人回廊」江素瑛
ビルが林立する町の廃屋の風景は、時代の流れを譲らない静かな存在である。もしかして独居老人がこの世を去った、誰も訪れてこない廃家に餌をもらっていた野良猫が時々戻ってくる、開きばなしのドアに気まぐれな風とわが家の昔の面影をさがす。
破れた垣根から覗いてみると「荒れ果てた庭に、我がものの顔の雑草」のひと言で、繰り返す世の盛衰興亡に目も向けない、止ることもない、時は流れて、永遠に流れて……。
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