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2014年1月12日 (日)

自己表現の自立性と鑑賞者

 先日、絵を描いている友人が珍しく展覧会に出品するというので、銀座まで行った。≪参照:文芸同志会のひろば≫。会では今後、自主的な印刷物を増やすつもりなので、表紙用に絵が欲しくて、頼んでいたところだ。最初は買ってもいいと、言ったところ売りたくないという。そこで、借りるということで、了解がとれた。面白く思ったのが、絵が抽象画であるせいか、あまり見せたくもない、という。
 彼の場合は、描いた世界に理解者がいなくても、自分の筆を動かす過程を自らが味わうということに、満足しているようなのだ。表現が自己探求になっている。
 画は誰にでもいつでも描けるというとろは、文章に似ている。スポーツのマラソン誰でも走れるル。まず掛け軸なのか、額縁に入れるのか、こうした決まりを意識して、そこから創作の姿勢が決まってくる。しかしマラソンが早く走るには、誰でもいつでもというわけにはいかない。しかし、人に知られず走ることだけに意義を見出すことができるのは絵に似ている。文章はどうなのか、今度もまた彼と飲んだ時は、その辺を聞いてみようと思う。

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