豊田一郎「屋根裏の鼠」に読む「文芸的社会史観」(7)
国民と国家の関係について、人民、統治者の視点、歴史、自己体験、思索、民族性から想いをたどってきたのが、豊田一郎「屋根裏の鼠」(「詩人回廊」)である。それを短い章に分割したのは編集者であるが、このことによってこれが文芸的な視点での史観であることが解りやすく伝わったと確信する。
しかし、その史観の中心軸となるのは日本であり、ある日本人による独白小説である。文体は「語り言葉」風の書き言葉で、語るように書くというスタイルになっている。
作品はその意識の流れを表現している。日本では非常に珍しいスタイルのものであるが、海外ではジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」の影響で広く採用されている。この場合の最後はマリアンの独白体で、〈意識の流れ〉が書かれて終わる形式である。
池澤夏樹は「『ユリシーズ』の最大の功績は、小説をプロットから解放したことである」と指摘している。『ユリシーズ』の中では、プロットあるいはストーリーは重要ではない。訳注があり、しかも訳注を読まないと、意味が分からない。
「屋根裏の鼠」も訳注が付くべきであろうと、編集者が不十分ながら、それを補完したことになる。
意識の流れを応用した作家といえば、ヴァージニア・ウルフやフォークナー、ガルシア=マルケスなど、この手法は世界に普及している。
「屋根裏の鼠」は、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』の存在の希薄性へ心理的な不安を軸にしていて文芸的であるが、「屋根裏の鼠」は、自分がなぜここに存在するのか、どこから来てどこに行く運命についての意識の流れである。日本流の「意識の流れ」手法の作品として意義があると思う。
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