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2013年12月13日 (金)

豊田一郎「屋根裏の鼠」に読む「文芸的社会史観」(5)

  国家と国民についての関係を豊田一郎が「屋根裏の鼠」「詩人回廊」で書いている。その視点は人間が集団で生活するという習性に従う構造を前提にしている。作者の国家イメージは、おそらく軍隊というお国のために戦う兵士としての身近な体験から出ているようだ。これは作者のほかの作品に色濃く反映されている。国民の存在の保存のための国家が、その存在を抹消させる圧力となることの矛盾を淡々と述べている。
 ここに書かれていることは、原発事故の政府による報道抑制が国民を危険な状況に追い込んだこと。また秘密保護法で、国家<すていつ>が国民<ねいしょん>を抑圧する事例にあてはまる。それもかなり脱構築的な視点からの論である。
 そこで、従来の社会段階を踏んで高度に発展するという方向性を信じる大きな物語の視点から、なぜ人間は集団をなし国家を形成してきたのか、ということを考えてみよう。私は国家の形成に神の存在が大きく影響していると考える。たとえば回教やユダヤ教など地球の乾燥地帯から生まれた1神教の起源を推察してみる。
 それは厳しい気候風土と遊牧民の存在から生まれたと考えられる。まず遊牧民には国境がなかった。牧畜を養うために、草原地帯を移動する。その範囲を広げると、縄張り争いや、条件の良い土地では農耕で定着民がいる。そこでの抵抗を排除するには、皆殺しをするか、占領するしかない。戦いには集団の統率力が必須である。でないと逆に反撃され抹殺されてしまう。そのためには厳しい父なる指導者、ヤハウエやアッラーがいなければならない。自己保存のための聖戦が前提となる。とはいっても自己保存は敵対者も権利がある。しかし、自分たちは、神に選ばれた特別な人間だから許されるとした。選民主義思想をもつことは、その正当化になる。生き残るすべとして、唯一絶対の神が必要なのだ。回教の経典には、前段部ですでに、「戦いの先陣にいるふりをしながら、少しずつ後方に下がる者がいるが、そのすべてをアッラーはご存知」という言葉がある――。その後、この世の生きとし生けるものを、自己保存のための生贄にすることは、やむ得ない「原罪」である、というキリスト教が生まれた。これには雨が多く、植物性の食べ物が豊富な温暖な気候風土のアジアとの交流の結果であろう。インドには牛を聖なる生き物と崇める。牛は草を食べるが、根こそぎ食べなければ草は死なない。他者の自己保存を犯さず自ら生きることができる動物こそ聖なるものなのである。ここにアジアで穏やかな気候風土から生まれた宗教の原点がある。
 また、遊牧民の子孫であるユダヤ系の人物にカール・マルクスがいる。マルクスは国家や国境を否定し、人間社会の発展の段階で国家は「死滅」する。または「眠り込む」と考えた。国境を持たない遊牧民族の伝統がそこに存在しているのであろう。これは私の唯物史観的宗教説である。

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