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2013年12月29日 (日)

なぜ外狩雅巳は北一郎評に対峙するのか。(投稿)

 わたくし外狩雅巳の作品をテクストにし、読み方を披露してくれた事には大感謝です。
 冒頭から「その思想性や現代性などを論じた評はない」と指摘し論を進めている。
 多くの読者が注目してくれる期待が湧きました。しかし、この切り口は斬新すぎて現在まで四十人程の感想返信者の中では一人も言及していません。なぜでしょう。≪参照:外狩雅巳のひろば
 小説読者は内容を読み感動したり反発したりします。内容に入り込み過ぎています。冷静に思想性や現代性を読み取らないのでしょう。同人誌作品への構えなのでしょう。
 主人公が時代の典型ではなく作者の分身に近く自己紹介や職歴の具体的な語りとして読んでしまうのでしょう。言い分も判った、人物も立ち上がり良い描写だ、でおしまいです。
 学生運動小説ならもっとインテリが緻密に書いている。時代を理解するならそちらで読みますよ。という構えの上で一庶民の体験や創作や言い分を聞いてみるのでしょう。
 だから、北一郎が「時代の社会思想の変遷を表現した作品」と指摘しても主人公を無学で世の中の事を理解しない庶民にした作品のヨイショでしょ。と反発するのでしょう。
 町田文芸交流会五日の集まりでは将にその感覚での発言がありました。討議での北氏の説得説明も届きませんでした。「それがいいのならば自分の作品も褒めて貰いたい」と、北氏に作品を送り付ける行動に出た方もいたとか。
 今回は、北氏は具体的に「これまで、読破した安保闘争作品の主人公は格好つけしている。この作品は、フーテンの寅さん的な庶民感覚」で時代批判が出来ていると再度の説明をおこなっています。
 でも、やはりインテリはしっかりとした批判精神を論理的に会得しているからなあ、その主人公の確かな目でこそ激動の安保闘争と人間のドラマになるのだよ、と言うでしょう。
 作者の私からみても、北一郎氏はプロレタリア文学の解説も民主文学からの引用だし、その影響だというのも検証せず、私がそう言うからそうだ。みたいに端折っています。
 民主文学の論はプロレタリア文学の四つ特徴をあげています。一つ一つ外狩作品にあてはめた検証があればきっと説得力があります。文体や舞台の類似性では不十分でしょう。
 なぜ「外狩雅巳は北一郎評と対峙するのか」と言えば、嬉しさのあまり欲が出たのです。徹底検証の上で社会性・思想性のある独自作品との折り紙が欲しいのです。
 北のコメント=作品をテクストにするという、テクストの最初の意味は、織り込まれたものという意味だそうで、この織るということには、既にあった材料(文学で言えば作品・表現)をもって生産するというでしょう。たまたま「新潮」新年号に、文芸評論家・蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」を執筆しています。≪参照:暮らしのノート「文芸と思想」≫注目するのは、ぐねぐねとした文体ですね。そして、東京新聞では浜矩子が「諸国民の富」のアダム・スミスの論を引用している。う~ん、そうか。マルクスやヘーゲルより古い思想でも出すんだ。参考になる。

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2013年12月28日 (土)

なぜ北一郎は、外狩雅巳作品と対峙するのか(3)

 作品をテクストとして読むということは、作者の意図とは関係なく、読者の解釈が主体になる。当然、作者の意図した通りに、読者が解釈するとは限らない。そこで「この路地抜けられます」に対する北一郎の解釈は、作者にどのように受け取られたかを、次の作者の感想からたどってみたい。≪参照:外狩雅巳のひろば
「北一郎氏の評論について」(外狩雅巳)
 セオリーに沿いながらも特徴のある作品評は硬質です。タイトルも読者を引き込む効果があり、噛み砕いた話法での文体も一定の効果を発揮しています。ただし、得意分野の哲学でノリノリ解説はイマイチ全読者均等には浸透しないのかなと気になります。
 彼は世俗の文学評価や噂話を十分に承知の上で独自な作品の読み方を説いています。挑発的なその文章姿勢には魅せられました。
 テクストの私の作品レベルが低く鋭い論調を誘わず褒めすぎたりした部分もあったようです。内容の部分を指摘してみました。
~北氏本領発揮の部分~
1、作品の虚構を説明する箇所。細部や数値が読者を納得させるとの説明は良い。
2、モーパッサン、雨宮処凛、ヘーゲル等の人名と業績からの説明もよくわかる。
3、125ページの冒頭などのように読者参加を誘う手腕も良い。
4、テクストの著者がヒューマンでロマン主義傾向だとの指摘したり、こだわりの作風を指摘したりの鑑賞眼も当たりですね。
5、P132後半で作品に批判力がない理由の指摘も当たりですね。
~著者に甘い書き方の部分~
1、愛の具現化だとして作中の猫を評価しているが愛という言葉のイメージに届かなかったようで、読者説得がどうかな?
2、忘れられたプロレタリア文学の説明。マルクスやヘーゲルの説明は誰が行っても難しい。ここは北一郎氏の工夫に期待。
3、同じくポストモダンなどの用語での平成の現代に対しての説明も困難なのでしょうね。大きな物語とかとも。
4、佐久間を作品の隠喩とする設明も読者の胸に落ちたかな?
5、P140で外狩雅巳ほど、小説において現代の社会社会思想の変遷を表現した作家を私は知らない。とは言いすぎ。北氏の読書遍歴に係る。重大発言です。ヨイショでないぞと大いに披露しなくっちゃ。
~責任はテクストにあるとも評論家は、自説の立ち位置の説明責任が必要です。納得は読者が決めます。北一郎評を本物にするための討議を巻き起こしたくこの一文を書きました。 粗筋説明や同感。物語への興味や整合性などでの短い作品評のみでもなかなかもらえないのが同人誌作家の現状です。時代と拮抗できる文芸評論家の出現を期待しています。きな臭い政治のきな臭い政治の時代に文学の言葉はどこまで届くのでしょうか。~~
 これは小説「この路地抜けられます」を、テクストとして北が論評したその「~読み方」を作者がテクストとして読んだものである。北としては、参考にするが、解釈は自由で、特にいうことはない。
 このなかで「外狩雅巳ほど、小説において現代の社会社会思想の変遷を表現した作家を私は知らない、とは言いすぎ。」としているが、ここでそれについてだけ言及しよう。
 作者は、この小説の主人公「俺」を大衆性をもったバカな男して描いたために、格好をつけずに、「資本論も革命論もよく知らずに、空気に流されてデモに参加しただけの自分」と反省しているところは、これまで左翼運動を題材にした小説では、おそらくないであろう。
 安保闘争について同人誌や商業誌に書かれた小説は、みんな格好をつけてそのことに触れない。ましてや、安保条約がなかったら日本はどうなっていたか、そのことに対する想像力の欠如こそ独立心の欠如である。米国の慰安婦として経済大国になって、それ以外のことは考えたくない日本人。外狩作品では、主人公を莫迦な男として描いたからこそ、寅さんのようにずばりと、皮肉に急所を突いていると受け取ったのである。

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2013年12月27日 (金)

文芸時評12月「東京新聞」(10月31日)沼野充義氏

岡田利規「地面と床」=「世界文学」鮮やかに実践
村上春樹「イエスタデイ」=男女の心理 円熟の深み
≪対象作品≫
 評論・木村朗子(さえこ)「震災後の文学論 あたらしい日本のために」(青土社)/岡田利規「地面と床」(新潮)/村上春樹「ドライブ・マイ・カー
」(「文芸春秋」12月号)/同「イエスタデイ」(「同」1月号)。

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2013年12月26日 (木)

石原・絲山・田中・松浦・沼野各氏が選ぶ今年の3冊

★石原千秋(早稲田大教授)
・いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)
・綿矢りさ『大地のゲーム』(新潮社)
・岩城けい『さようなら、オレンジ』(筑摩書房)
★絲山秋子(作家)
・村田喜代子『ゆうじょこう』(新潮社)
・小野正嗣『獅子渡り鼻』(講談社)
・今村友紀『ジャックを殺せ、』(河出書房新社)
★田中和生(文芸評論家)
・小川国夫『ヨレハ記』(ぷねうま舎)
・辻原登『冬の旅』(集英社)
・佐伯一麦『還れぬ家』(新潮社)
★松浦寿輝(作家)
・津島佑子『ヤマネコ・ドーム』(講談社)
・島田雅彦『ニッチを探して』(新潮社)
・佐伯一麦『還れぬ家』(新潮社)
★沼野充義(東京大教授)
・川上弘美『なめらかで熱くて甘苦しくて』(新潮社)
・いとうせいこう「鼻に挟み撃ち」(「すばる」12月号)
・川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」(「新潮」11月号)
(2013年12月24日 読売新聞)

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2013年12月24日 (火)

文芸同人誌評「週刊読書人」(2013年11月29日)白川正芳氏

藤岡ゆう子「『古事記』を読む-ゆかりの古里を訪ねて」(「アミーゴ」70)、「ベルク」116号より谷田光弘「初めての富士山」、渡辺弘子「龍造・戦後編」(「南風」34号)
「第五回富士正晴全国同人誌フェスティバル」より雑誌賞大賞「蒼空」17号(高知県)、特別賞「文芸中部」19号・「弦」90号・「姫路文学」126号
森啓夫「復刊、文学街を辿る」(「文学街」314号)、大谷武邦「扶養照会」(「民主文学」12月号)、岩崎芳生「ノート」(「静岡文学」83号)、黒羽英一「カフカ詣り」(「文芸軌道」10月号)、冬木湯来る「犬と私のうつな生活」(「旅かばん」7号)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2013年12月23日 (月)

物事に流されず--時間の奴隷にならず  豆本作家・赤井都さん

2013年に作った豆本は『ぴょん』『年間手帳』『不思議の国のアリス』『採集記』。そして『楽しい豆本の作り方』が学研から。5作品で、豊作の年でした。革表紙のミニチュアブックに、ついに手を出して、革を扱うのはやっぱり楽しい、と思いました。扱っていて楽しい、好きな素材です。≪参照:言壷
2013年のイベントは、4月個展、10月三省堂、11月みずのそらで、大物が3回あって充分すぎるほど充分でした。2013年の教室は、定期的な自宅教室とヴォーグと銀座、そして池袋、横浜、千葉で、こちらも充実していました。
そのわりに、「忙しい忙しい」にはならずに生活できたので、よかったと思います。物事に流されずに、自分で自分のことは決めるペースを守れたので、時間の奴隷ではなく、自分の主人になれた気がします。来年もこの調子でよい仕事を。
来年2014年は、豆本刊行は1種類でもいいくらい。イベントは、1月個展と9月三省堂で、もう充分。教室は、自宅と銀座、そして池袋に集約したいと思います。
 実は、3年前から、作ろうとしていた豆本があって、それは3.11でしばらく寝かせることにして、現在に至ります。スケッチが何枚にもなってきて、参考になる技能の本も集まってきてそろそろいよいよ、形にすることにします。これを作るのに印刷から半年かかるだろうから、そのための時間調整の段階に入りました。刊行は一年後くらいを見ています。
 函つきのミニチュアブックになります。テキストはずっと前から決まっていて、3年間に活字を拾ってあったのですが、形で悩んでいました。手を動かしたらまた悩みつつ作ると思います。これの前に、壜入り豆本の4号を、春に作ればよいな、と思っています。これも作りたい形があって、こちらはテキストがまだなんです。何かひらめくよう、いろんな本や写真集をぱらぱらめくって、余裕のある時間を過ごしています。

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2013年12月21日 (土)

なぜ北一郎は、外狩雅巳作品と対峙するのか(2)

 小説をテクストとして読んで評論をするというのは、おおよそ多くの人に読まれた古典や、常に話題となる人気作家など、柱となる作品に沿って行うことが普通である。
 それにくらべ自費出版した小説の評論となると、作品を読者が読んでいないことを前提にしなければならない。これをやるには技術が必要だろう。やる人もすくないであろう。そう思うとライター精神が動いた。おおよそフリーライターなどは基本的に何でも、読み物にしてしまうものだ。
 しかも、外狩作品は創作者としての思想らしきものがあるのと、小説の素材の使い方と語り口にセンスがある。料理でいえば、玉ねぎのような刺激性をそなえたどうにでも料理できる良い素材であった。さらに栄養もあって、頭の体操にもなる。きちんと作品を読めば、何かを学べるものがある。≪参照;外狩雅巳のひろば
 しかし、同人雑誌仲間は義理で読むので、本心からの評論などはないはず、と北は考えた。他人の作品など、どうでもよいのである。そこで関心を呼ぶためには作品はテクストとして参照する形式にした。幸いに外狩作品は短編集なので、その作品をまず収録したものに、評論をつけ解説がわりにすることが可能であった。そこから「外狩雅巳の世界ガイド2013」とし、年度ごとにその成果をまとめられるようにした。幾度も繰り返して情報発信し、イメージ定着させるためのフォーム。読者が、自然にそれを読むようになることと継続性への設計の苦心がいる。
 内容ではまず「文芸同人誌作家・外狩雅巳の作品的な悲劇」という文体論を書いた。西尾維新という若者に人気のある流行作家の文体を引き合いに出した。第一回文学フリマに参加していたが、プロなので量産をしている。当時は若いために人生に蓄積がなかった。それで沢山書くから内容がない。内容がないのに、どう読ますか。文章のノリと文体力で勝負するしかない。そこで、行き詰まらないような構えをとって、書き続けるための文体を開発している。語り部の文章技術である。これは、あまり理解されなかったようだ。外狩氏が西尾維新を知らないという。これは北の失策であった。ただ、これを読んだ他の会員からは、西尾維新を読んでいるなんて、どういう考えだとそうした関心が持てるのか聞かれた。昔から作家は、内容がなくても読ませる工夫をするものなので、現代ではどのような文体でそれをしているか、なんでも一応、目を通しているだけのことだ。どうも同人誌のひとは文体に興味がないらしいことがわかった。

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2013年12月20日 (金)

第150回「芥川・直木賞」の候補作、いとうせいこうさん、朝井まかてさんなど

日本文学振興会が12月20日、 第150回「芥川・直木賞」の候補作を発表した。選考会は1月16日、東京・新喜楽にて。候補作は次の通り。
【芥川賞】
▽いとうせいこう「鼻に挟み撃ち」(すばる・12月号)
▽岩城けい『さようなら、オレンジ』(筑摩書房)
▽小山田浩子「穴」(新潮・9月号)
▽松波太郎「LIFE」(群像・7月号)
▽山下澄人「コルバトントリ」(文學界・10月号)
【直木賞】
▽朝井まかて『恋歌』(講談社)
▽伊東潤『王になろうとした男』(文藝春秋)
▽千早茜『あとかた』(新潮社)
▽姫野カオルコ『昭和の犬』(幻冬舎)
▽万城目学『とっぴんぱらりの風太郎』(文藝春秋)
▽柚木麻子『伊藤くんA to E』(幻冬舎)


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2013年12月19日 (木)

対談「文芸この1年2013」沼野充義×市川真人(東京新聞12月18日)(下)

 取り上げられた作品と作家=東浩紀「クリュッセの魚」/小田浩子「工場」「穴」/黒田夏子「感受体のおどり」/松家仁之「沈むフランシス」/本谷希紀子「自分を好きにになる法」「嵐のピクニック」/藤野香織「8月の8つの短編」「爪と目」/松田青子「スタッキング可能」「英子の森」/川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」「ヘヴン」/大江健三郎「晩年様式集(イン・レイト・スタイル」。

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2013年12月18日 (水)

対談「文芸この1年2013」沼野充義×市川真人(東京新聞12月17日)(上)

 取り上げられた作品と作家=黒田夏子「abさんご」/高橋源一郎「銀河鉄道の彼方に」/翻訳家・岸本佐和子/海外ではミステリー作家の中村文則/伊藤計劃の遺作を円城裕が書き継ぐ/いとうせいこう「存在しない作者」「想像ラジオ」/村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」/フランスでは小川洋子の評価が春樹より高いくらい。

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2013年12月16日 (月)

文芸同人誌「奏」2013冬

【ぷらていあ「正宗白鳥『今年の秋』ノート」勝呂奏】
 正宗白鳥といえば、私は岩波文庫の戯曲のようなものしか読んでいない。ここに記されているようなエッセイでもなく私小説でもない「散文」というスタイルを構築しようとしていた事実をまったく知らなかった。興味深く読んだ。というのも、自分が趣味的な書き物として、歴史的事実としての資料性と、今の時代、それに語り手の「私」がメッセージを盛り込む。「私」は必ずしも現在の「私」ではない、というスタイルを作ることを考えていたからだ。一部実験をしているが、なかなか工夫が必要で、気に入るようにはいかない。ただ、作文をする過程の面白さは楽しめる。独りで詰将棋や詰碁を楽しむのに似ている。
 文壇の大御所だった作家と無名人とでは意味が異なるが、文芸の技術については関心が重なるところが面白い。いつの時代でも「この世に新しきものは無し」である。
【「父のこと」勝呂奏】
 父親の故・勝呂弘氏との息子の立場からの交流の思い出。立派な教育者で歌人であったエリートと、同じ道を歩む息子という構図が興味深い。なぜか日本にはエディプス・コンプレクスのテーマ小説はあまり読まれないようだが、ここでは本人が意識して話題にしている。お互いの対話の有り様が、なるほどと思わせる。親が無意識に期待していることを、息子がいくら意識させられないといっても、無意識に感じてしまっているものだ。立派な人といわれた父親の息子はやはり立派な人となろうと努力することがわかる。私の境遇は、勝呂家とあまりにも対照的である。父は継母に育てられ、丁稚奉公で尋常小学校も卒業していない。私が大学を出てからは、共通の話がなくて困った。碁や将棋を勧めても、お前が勝つにきまっている、とやらない。気位の低い変なところのある親で、とにかく趣味をもたそうと後楽園で場外馬券の100円券からの買い方を教えた。これがあたって、前夜には競馬新聞を読んで予想に夢中になった。100円で万馬券を当てると、大喜びして自慢しにきた。好き嫌いを超えて憎めないところがあった。姉妹弟、親類からは、息子が親に悪い遊びを教えたと批判されたものだ。立派でない父親と立派でない長男であった。いろいろ悩まされたこともあったが、死なれてみると、自分のどこかの細胞がなくなったような気がしたものだ。肉親関係の不思議なところだ。今回の「奏」は、そうした喪失感がよく伝わってくる。
発行所=〒420-0881静岡市葵町北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2013年12月15日 (日)

なぜ北一郎は、外狩雅巳作品と対峙するのか(1)

 外狩雅巳氏に私が文芸同志会に入会したらいいですよ、と誘った時、彼はすでに短編集「十坪のるつぼ」と「この路地抜けられます」の単行本を刊行している作家であった。
 北は、彼の作家的な手腕を理解して、文学者として社会的なメッセージを発信してもらえると思っていたのだ。ところが当初は、どうもお互いに話がチグハグでかみ合わない。それは、北が顔の見えない市民たちに、メッセージジを発信することで、外狩雅巳の作家的存在感の確立を読みこんでいたのに対し、外狩氏は、顔の見える文芸同人誌の世界での存在位置の確立を目指しているからだったとわかったのである。その経緯は≪外狩雅巳のひろば≫に詳しい。
 北は、外狩氏の提供する情報で、その事情がなんとなくわかってきた。その後の情報交換で外狩氏は、合評会などで作品への反響がなく「短い作品評のみでもなかなか意見をおもらえないのが同人誌作家の現状」という。
 そこで北は、まず外狩作品を顔の見えない一般市民に近い読者層への拡大で文学フリマに参加すること、その作品評論を北一郎が執筆してその社会的な意味を浮き彫りにする、ということで、意見が一致した。
  ただし、北一郎は職業ライターであるから、内容にそれなりに独自のノウハウを展開するので文芸同志会に謝礼寄金をしてもらうことで、話がついた。当然、この活動によって、外狩雅巳の作品の読者が増えることが目的である。
  そうするからには批評は批評としての客観性と独立性をもたなければならない。作者が北の批評に不満があれば、その反論をしてもらい、北はそれに回答をしてゆくことにしたのである。そのことによって、顔の見える同人誌作家仲間と、顔の見えない一般人市民読者との反応がどう違うかが解れば、それは北と外狩の両者にとって、意義ある収穫であると考えるのだ。

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2013年12月14日 (土)

北一郎の生活と文芸の思想

 詩集「有情無情、東京風景」(北一郎)のタイトルは、師である直木賞作家で詩人の伊藤桂一氏が命名してくれたものだ。詩作品より、師の跋文がすごく、さすが伊藤桂一氏の面目躍如である、という感想もあった。おかげで、なんとか格好がついた。伊藤桂一氏は、神戸のケアマンションに転居してからすっかり足腰が弱くなってしまった。なんでも先月には豊橋に出かけた折に、転倒して大腿部骨折し、しばらく豊橋の病院に入院していたという。現在は、退院して神戸の自宅に戻っているそうである。
 この詩集は、一般人に読まれるように書いてある。解りやすさに重点を置いている。その視点でのアピールをし、≪文芸同志会のひろば≫で「実相と解題」を連載していく。あくまで一般人生活のなかでの文芸の浸透である。しかし、解りやすさだけでは、文芸ファンが物足りないであろうと、詩集には説明のないマニア向けの裏事情を記してみた。詩集の宣伝ではこのようなやり方は、新工夫であろう。これは北がコピーライターをしているための特殊性であるが、その特殊性が個性なのである。凡人には、それぐらいしか個性的なものは持ち得ないのである。

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2013年12月13日 (金)

豊田一郎「屋根裏の鼠」に読む「文芸的社会史観」(5)

  国家と国民についての関係を豊田一郎が「屋根裏の鼠」「詩人回廊」で書いている。その視点は人間が集団で生活するという習性に従う構造を前提にしている。作者の国家イメージは、おそらく軍隊というお国のために戦う兵士としての身近な体験から出ているようだ。これは作者のほかの作品に色濃く反映されている。国民の存在の保存のための国家が、その存在を抹消させる圧力となることの矛盾を淡々と述べている。
 ここに書かれていることは、原発事故の政府による報道抑制が国民を危険な状況に追い込んだこと。また秘密保護法で、国家<すていつ>が国民<ねいしょん>を抑圧する事例にあてはまる。それもかなり脱構築的な視点からの論である。
 そこで、従来の社会段階を踏んで高度に発展するという方向性を信じる大きな物語の視点から、なぜ人間は集団をなし国家を形成してきたのか、ということを考えてみよう。私は国家の形成に神の存在が大きく影響していると考える。たとえば回教やユダヤ教など地球の乾燥地帯から生まれた1神教の起源を推察してみる。
 それは厳しい気候風土と遊牧民の存在から生まれたと考えられる。まず遊牧民には国境がなかった。牧畜を養うために、草原地帯を移動する。その範囲を広げると、縄張り争いや、条件の良い土地では農耕で定着民がいる。そこでの抵抗を排除するには、皆殺しをするか、占領するしかない。戦いには集団の統率力が必須である。でないと逆に反撃され抹殺されてしまう。そのためには厳しい父なる指導者、ヤハウエやアッラーがいなければならない。自己保存のための聖戦が前提となる。とはいっても自己保存は敵対者も権利がある。しかし、自分たちは、神に選ばれた特別な人間だから許されるとした。選民主義思想をもつことは、その正当化になる。生き残るすべとして、唯一絶対の神が必要なのだ。回教の経典には、前段部ですでに、「戦いの先陣にいるふりをしながら、少しずつ後方に下がる者がいるが、そのすべてをアッラーはご存知」という言葉がある――。その後、この世の生きとし生けるものを、自己保存のための生贄にすることは、やむ得ない「原罪」である、というキリスト教が生まれた。これには雨が多く、植物性の食べ物が豊富な温暖な気候風土のアジアとの交流の結果であろう。インドには牛を聖なる生き物と崇める。牛は草を食べるが、根こそぎ食べなければ草は死なない。他者の自己保存を犯さず自ら生きることができる動物こそ聖なるものなのである。ここにアジアで穏やかな気候風土から生まれた宗教の原点がある。
 また、遊牧民の子孫であるユダヤ系の人物にカール・マルクスがいる。マルクスは国家や国境を否定し、人間社会の発展の段階で国家は「死滅」する。または「眠り込む」と考えた。国境を持たない遊牧民族の伝統がそこに存在しているのであろう。これは私の唯物史観的宗教説である。

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2013年12月12日 (木)

自由報道協会総会に出席した

12月11日の自由報道協会総会に出席してきた。まだ活動はしているのがわかった。新体制で活動再開するという。≪参照:自由報道協会サイト
 大貫康雄氏、上杉隆氏、おしどりリマコ氏は、だいたい「NEWS LOG」で活動をしている。WEB週刊「金曜日」の伊田浩之氏は「日本の司法を正す会」の運営をしている。時間の許す限り自分も出席している。≪参照:暮らしのノートITO
 オリコンから訴訟されたことのある烏賀陽弘道氏も出席していた。数年前は稿料の出るブログ執筆があったようで、原稿料について記されている。≪参照:音楽コラム≫ここには400字で5000円で安いとなっている。面白いね。当時の私はライター登録で4百字4000円であった。しかし、経済団体組織の機関紙30ページ、新聞8ページを全部自分で記事作成をしていたので、高過ぎると文句をいわれながらも続けていた。自分も断られたら、文学活動をしようと思っていたので、妥協はしなかった。ケイタイ用記事などは200字単位で2000円であったが、すぐ終わるので安い感じがしたものだ。量の問題で、一概に高い安いはいえない。ただし、これは5年以上前の話だ。いまはそのようなフリーライターの発表の場が減っているのは事実のようだ。

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2013年12月 9日 (月)

デジタル化と本の市場=電子書籍小説の投稿・閲覧

小説の投稿・閲覧サイトが増えている。E★エブリスタは大手企業のサイト。そのほか電子書籍のパブーも独自の展開をしている。スタッフが日ごろ書いたレビューを使ってReader Storeに投稿してみた!ブクログでのレビュー数は100件!レビューを使ってReader Storeで本を他の人が買ってくれればポイントがプレゼントされる! 。
 「CRUNCH MAGAZINE」を運営するCRUNCHERSとディスカヴァー・トゥエンティワンはこのほど、共同で小説レーベル「CRUNCH NOVELS」のフォームをつくり、現在、新人小説家を募集している。応募締切は来年4月30日。作品ではなく、「作家」を募る。 応募者は同プラットフォームに会員登録後、専用ウェブサイトに経歴・自己PR・参考となる小説作品などを登録する。両社による選考のほか、応募者・応募作に対するユーザーからの反響、作品のテキスト解析結果、人物評価を総合して選出するという。受賞者には賞金50万円が授与され、デビュー小説はディスカヴァー・トゥエンティワンから単行本・電子書籍として刊行される。
※CRUNCHERSは、河出書房新社「文藝賞」受賞作家である今村友紀氏が今年7月に立ち上げた企業。純文学系の投稿プラットフォーム「CRUNCH MAGAZINE」を運営するなどしている。


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2013年12月 8日 (日)

「中部ペン」第20号(名古屋市)

【「風の訪れ」猿渡由美子】
第26回中部ペンクラブ文学賞受賞作。一読して、この作品を選んだ中部ペンクラブの現代性というか、時代性への感度の良さを感じた。一般人が読んでも面白いと思う小説のスタイルを持ち、小説としての普遍性を持っている。私は送られてくる同人誌を通りすがりの第三者の立場で読ませてもらってきたが、そのなかで今年一番の作品である。(多少、歯切れがわるく、不徹底に思うところもあるが)ー-それを強調したく、早くから読んでいたにも関わらず、年が詰まるまで待っていたのである。
 小説は、語り手がどの立ち位置で書いてるか、最大の問題である。本作品は、作者が語り手としての立ち位置をほぼ確立するであろうと、予感させる。語り手の「私」を含めて3人のキャラクターを描いているところにある。
 本賞の選者の評によると、脱力系小説として評価したとある。そのなかでこの作品の本質を物語っているのが、ガチガチの私小説作家の吉田知子氏の評である。猿渡氏の立ち位置は、想像力で自分とは無関係な人物を生み出すという、純文学私小説とは対極をなすことへの戸惑いであろう。たしかに、これは娯楽小説に限りなく接近する。だからといって、純文学がつまらない小説でないといけないということではない。そこにおいて、吉田氏は、これが純文学小説として成り立つかも知れない、ということを認めている。その柔軟性に、別の感銘を受けた。
【文学講演会「小説の現在と未来」清水良典】
 記録者である遠藤昭巳氏の書き起こしの文章が素晴らしい。清水氏は、村上春樹がアメリカ文学の影響を受けて、手法がそれの真似である、と言われて不機嫌になっている話をする。そして、現代文学が自我を持たないという位置から創作するようになった始まりを紹介している。純文学のかつての傾向に内面的な自己探求が重要なテーマであったが、それが他者との関係と結びつけて追求されているのではないか、という私の観点を裏付けているような気がした。
発行所=〒464-0067名古屋市千種区池下1-4-17、オクト王子ビル6F、中部ペンクラブ。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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2013年12月 7日 (土)

デジタル化と本の市場= 映画と原作本のような連携に

 ネットの読み物は、結局は紙の書籍化に転換しないことには商業ベースに乗らないことがわかってきている。最終的には、映画いと原作小説のように、連携するがジャンルが異なるという認識になるのではないだろうか。
 金沢伸明氏によるサバイバルホラー「王様ゲーム」は、モバゲータウン(現・E★エブリスタ)に投稿。書籍版(双葉社)はシリーズ累計500万部のヒットになった。サイトで知った読者が、書店やコンビニで紙の小説やマンガを購入。逆に紙から入った読者が続きを読むためにウェブにアクセスする。そんな好循環が生まれた。毎日新聞社による学校読書調査でも中高生が読んだ本のベスト5に何年もランクインを続けている。金沢伸明氏は「たまたまモバゲーでケータイ小説の存在を知った。中高生が多かったので、共感してもらえるように学校を舞台にして主人公は高校生。何かゲームをやらせよう、普通のエロい王様ゲームじゃつまんないし、じゃあホラーかな……と」
 読者から比較されたのは高見広春『バトル・ロワイアル』と山田悠介『リアル鬼ごっこ』だという。同作では死の恐怖に晒された高校生たちの醜い感情の噴出や、ぎょっとするような暴力が描かれる。
 「インパクト重視ですね。非日常感を味わいたい人には必要だろう、と。『進撃の巨人』も、グロテスクなものって気になって見ちゃうんですよね、人は」
 金沢氏は同作の執筆を始めるまで、ほとんど小説を読んだことがなかった。しかしアップを始めて反響があり、設定の矛盾の指摘があれば連載を遡って修正し、「アップしたら5分で来る」という読者からの感想や意見を元に執筆作法をマスターした。
 「1日2ページくらいずつ更新、展開が早くないとみんな飽きちゃう、他の作家が3ページかけるところを2行で書く。短文でも受け手に残るメッセージを込めた言葉を選びます。あとは次が読みたくなるように『引き』を毎回作りますね」
  「王様ゲーム」は最初にネットに上げるものがコアとなり、本、コミック、映画、ソーシャルゲームに展開するときには各媒体に適したアレンジがなされている。明確な読者像に基づき、メディアやチャネルに合わせた創作技法を駆使してニーズを満たすーー。商売の、そしてエンタメの基本だが、それを徹底している。
「王様ゲーム」以外の新作もエブリスタで執筆中。
」(「新文化」2013年10月10日号より)

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2013年12月 5日 (木)

外狩氏が文芸多様化の時代の交流をはかる

 外狩雅巳氏は、文芸同人サークルの横のつながりをもっている。そこで同人誌の枠を超えた文芸交流会の世話役を行ってきたようだ。12月4日の日に町田市内で第5回「文芸交流会」を行った。≪参照:外狩雅巳のひろば
 合評会などでは、作品の感想を述べるだけに時間がとられてしまう。自由に関心のあることについて話し合える機会を皆が求めていて、その機会を外狩氏が作ったことがわかる。前回に続き文芸同志会の代表として参加してきた。増補新刊「外狩雅巳の世界ガイド」が出来たこともあり、そこに北一郎名義で『小説「この路地抜けられます」の読み方』を執筆しているので、その解説も行った。
 なかで、この評論は、外狩作品の「ヨイショ」であるという受け取り方もあって、それはそのようにも受けと入れるのは仕方がない。なにしろ彼に依頼されてのことだからである。また会員であるからやっているので、だれにでもやるわけではない。
 しかし、本筋は作品が書かれるような現代の時代動向を、作品と照らし合わせて、読み取ろうというもので、それは普通の読者の視点でもあるはずである。基本はそんなに褒めてもいなければ、貶してもいない。出来不出来は、作者の問題であって、評論する詩人としての北の問題ではない。このような作品が生まれる現代の社会の見方について一定の視点があることが理解されるといいなーーというものである。
 ヘーゲルは人間精神の本質を、精神は新たな経験を積むことで、意識がより高次な世界観を獲得していく。新たな経験は自分と世界との関係を混乱させるが、意識はそれに新しい統一的な世界像を作り上げようとする。精神は「価値ある私でありたい」という自我の欲望をもっており、同時に自分をそうしたものとして他者か承認してもらいたいという「承認への欲望」を持っているーーとしている。
 取り敢えず、この承認への欲望を実現し、それから次の作品にかかれば良いとおもうのだが……。


 

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2013年12月 3日 (火)

【文芸月評】哀しき人間への慈しみ(2013年11月29日 読売新聞)

.浮き沈みする生への共感
≪対象作品≫
村上春樹さん(64)「文芸春秋」12月号に寄せた短編「ドライブ・マイ・カー」。
黒川創さん(52)の「深草稲荷御前町」(新潮)。
前田隆壱(りゅういち)さん(47)「アフリカ鯰(なまず)」。
荻世(おぎよ)いをらさん(30)の「宦官(かんがん)への授業」(文学界)。
北野道夫さん(29)「京都ジャンクション」(すばる)。
横田創さん(43)の「丘の上の動物園」(同)は、赤ん坊をトイレで産んだ精神的に幼い女の内面に幼い筆で迫る。
広小路尚祈(なおき)さん(41)の「じい」(群像)。
 「文学界」の新人小説月評で評論家の清水良典さん(59)は先月の新人賞受賞作に触れ、小説の常識的な書き方を覆す「奇妙な小説」が「一種類型的なトレンドになっている」と指摘した。東日本大震災の復興が物理的に進まない一方、ネットなど仮想空間は加速度的に膨張する。異様な時代に肉薄する新しい作家の文学の形が問われている。
 連載では、宮本輝さん(66)の大河小説「流転の海」第7部「満月の道」(「新潮」昨年1月号~)が完結。(文化部 待田晋哉)

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2013年12月 2日 (月)

西日本文学展望「西日本新聞」2013年11月28日(木)朝刊、長野秀樹氏

題「人生経験」
長崎県高等学校文芸コンクール・最優秀作は佐世保北高校2年古川桃さん「風の日」・優秀賞は諫早高校2年廣田海洋くん「アクター」・優良賞は大村高校2年西山育さん「白の円舞曲」
『大羽崇之作品集』(梓書院、福岡市)より「青唐辛子と腹巻きの米」・「坂道のトラックと引っ越し」・「熊野」・深田俊祐さんの「解題」・いよやよいさんの詩「悪夢-ついてくるな-」
松本文世さん「CCD」(「南風」34号、福岡市)
「宇佐文学」54号(大分県宇佐市)より緒方末広さん「私も『フソニスト』?」・小川進一さん「大神宅女」、「詩と真実」773号(熊本市)より木下恵美子さん「惑いの果て」
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2013年12月 1日 (日)

同人誌時評10月「図書新聞」(2013年11月23日)たかとう匡子氏

題「同人雑誌の価値について改めて考えさせられる」
『ペガーダ』第13号(文学同人アニマの会)より桜井信夫「『火をつけにきた男』 野間宏『暗い絵』の思い出から」、『VIKNG』第752号(バイキングクラブ)ゆり中尾務「富士正晴と『海風』同人たち-青山光二、柴野方彦との交流から」、『VAN』第20号より成田昭男「詩よ、三人のラジカリズムをさがせ-松下昇・菅谷規矩雄・北川透の関係史(四)共同性と自立の交錯(一)北川透は谷川雁をどう読んだのか」・同「未定なる名古屋中原中也まつりを諦めず(戯曲のような)レーニン、中也を尋問する」・陶山幾朗「真昼の喧噪-パステルナーク事件の光景(一一)再び、モスクワ芸術座へ-岡田嘉子の《罪と罰》」
『LEIDEN』第4号(雷電舎)より高橋秀明「家族」、『遍路宿』第198号(ずいひつ遍路宿の会)より佐々木三知代「一代限り」、『女人随筆』代130号(女人随筆社)より渡辺美千穂「だから困る」
『双鷲』第80号(双鷲社)稲垣瑞雄追悼号より稲垣信子「『双鷲』に命を賭けた夫」・同氏の著書『「野上彌生子日記」を読む』
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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