なぜ外狩雅巳は北一郎評に対峙するのか。(投稿)
わたくし外狩雅巳の作品をテクストにし、読み方を披露してくれた事には大感謝です。
冒頭から「その思想性や現代性などを論じた評はない」と指摘し論を進めている。
多くの読者が注目してくれる期待が湧きました。しかし、この切り口は斬新すぎて現在まで四十人程の感想返信者の中では一人も言及していません。なぜでしょう。≪参照:外狩雅巳のひろば≫
小説読者は内容を読み感動したり反発したりします。内容に入り込み過ぎています。冷静に思想性や現代性を読み取らないのでしょう。同人誌作品への構えなのでしょう。
主人公が時代の典型ではなく作者の分身に近く自己紹介や職歴の具体的な語りとして読んでしまうのでしょう。言い分も判った、人物も立ち上がり良い描写だ、でおしまいです。
学生運動小説ならもっとインテリが緻密に書いている。時代を理解するならそちらで読みますよ。という構えの上で一庶民の体験や創作や言い分を聞いてみるのでしょう。
だから、北一郎が「時代の社会思想の変遷を表現した作品」と指摘しても主人公を無学で世の中の事を理解しない庶民にした作品のヨイショでしょ。と反発するのでしょう。
町田文芸交流会五日の集まりでは将にその感覚での発言がありました。討議での北氏の説得説明も届きませんでした。「それがいいのならば自分の作品も褒めて貰いたい」と、北氏に作品を送り付ける行動に出た方もいたとか。
今回は、北氏は具体的に「これまで、読破した安保闘争作品の主人公は格好つけしている。この作品は、フーテンの寅さん的な庶民感覚」で時代批判が出来ていると再度の説明をおこなっています。
でも、やはりインテリはしっかりとした批判精神を論理的に会得しているからなあ、その主人公の確かな目でこそ激動の安保闘争と人間のドラマになるのだよ、と言うでしょう。
作者の私からみても、北一郎氏はプロレタリア文学の解説も民主文学からの引用だし、その影響だというのも検証せず、私がそう言うからそうだ。みたいに端折っています。
民主文学の論はプロレタリア文学の四つ特徴をあげています。一つ一つ外狩作品にあてはめた検証があればきっと説得力があります。文体や舞台の類似性では不十分でしょう。
なぜ「外狩雅巳は北一郎評と対峙するのか」と言えば、嬉しさのあまり欲が出たのです。徹底検証の上で社会性・思想性のある独自作品との折り紙が欲しいのです。
北のコメント=作品をテクストにするという、テクストの最初の意味は、織り込まれたものという意味だそうで、この織るということには、既にあった材料(文学で言えば作品・表現)をもって生産するというでしょう。たまたま「新潮」新年号に、文芸評論家・蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」を執筆しています。≪参照:暮らしのノート「文芸と思想」≫注目するのは、ぐねぐねとした文体ですね。そして、東京新聞では浜矩子が「諸国民の富」のアダム・スミスの論を引用している。う~ん、そうか。マルクスやヘーゲルより古い思想でも出すんだ。参考になる。
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