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2013年12月16日 (月)

文芸同人誌「奏」2013冬

【ぷらていあ「正宗白鳥『今年の秋』ノート」勝呂奏】
 正宗白鳥といえば、私は岩波文庫の戯曲のようなものしか読んでいない。ここに記されているようなエッセイでもなく私小説でもない「散文」というスタイルを構築しようとしていた事実をまったく知らなかった。興味深く読んだ。というのも、自分が趣味的な書き物として、歴史的事実としての資料性と、今の時代、それに語り手の「私」がメッセージを盛り込む。「私」は必ずしも現在の「私」ではない、というスタイルを作ることを考えていたからだ。一部実験をしているが、なかなか工夫が必要で、気に入るようにはいかない。ただ、作文をする過程の面白さは楽しめる。独りで詰将棋や詰碁を楽しむのに似ている。
 文壇の大御所だった作家と無名人とでは意味が異なるが、文芸の技術については関心が重なるところが面白い。いつの時代でも「この世に新しきものは無し」である。
【「父のこと」勝呂奏】
 父親の故・勝呂弘氏との息子の立場からの交流の思い出。立派な教育者で歌人であったエリートと、同じ道を歩む息子という構図が興味深い。なぜか日本にはエディプス・コンプレクスのテーマ小説はあまり読まれないようだが、ここでは本人が意識して話題にしている。お互いの対話の有り様が、なるほどと思わせる。親が無意識に期待していることを、息子がいくら意識させられないといっても、無意識に感じてしまっているものだ。立派な人といわれた父親の息子はやはり立派な人となろうと努力することがわかる。私の境遇は、勝呂家とあまりにも対照的である。父は継母に育てられ、丁稚奉公で尋常小学校も卒業していない。私が大学を出てからは、共通の話がなくて困った。碁や将棋を勧めても、お前が勝つにきまっている、とやらない。気位の低い変なところのある親で、とにかく趣味をもたそうと後楽園で場外馬券の100円券からの買い方を教えた。これがあたって、前夜には競馬新聞を読んで予想に夢中になった。100円で万馬券を当てると、大喜びして自慢しにきた。好き嫌いを超えて憎めないところがあった。姉妹弟、親類からは、息子が親に悪い遊びを教えたと批判されたものだ。立派でない父親と立派でない長男であった。いろいろ悩まされたこともあったが、死なれてみると、自分のどこかの細胞がなくなったような気がしたものだ。肉親関係の不思議なところだ。今回の「奏」は、そうした喪失感がよく伝わってくる。
発行所=〒420-0881静岡市葵町北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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