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2013年12月28日 (土)

なぜ北一郎は、外狩雅巳作品と対峙するのか(3)

 作品をテクストとして読むということは、作者の意図とは関係なく、読者の解釈が主体になる。当然、作者の意図した通りに、読者が解釈するとは限らない。そこで「この路地抜けられます」に対する北一郎の解釈は、作者にどのように受け取られたかを、次の作者の感想からたどってみたい。≪参照:外狩雅巳のひろば
「北一郎氏の評論について」(外狩雅巳)
 セオリーに沿いながらも特徴のある作品評は硬質です。タイトルも読者を引き込む効果があり、噛み砕いた話法での文体も一定の効果を発揮しています。ただし、得意分野の哲学でノリノリ解説はイマイチ全読者均等には浸透しないのかなと気になります。
 彼は世俗の文学評価や噂話を十分に承知の上で独自な作品の読み方を説いています。挑発的なその文章姿勢には魅せられました。
 テクストの私の作品レベルが低く鋭い論調を誘わず褒めすぎたりした部分もあったようです。内容の部分を指摘してみました。
~北氏本領発揮の部分~
1、作品の虚構を説明する箇所。細部や数値が読者を納得させるとの説明は良い。
2、モーパッサン、雨宮処凛、ヘーゲル等の人名と業績からの説明もよくわかる。
3、125ページの冒頭などのように読者参加を誘う手腕も良い。
4、テクストの著者がヒューマンでロマン主義傾向だとの指摘したり、こだわりの作風を指摘したりの鑑賞眼も当たりですね。
5、P132後半で作品に批判力がない理由の指摘も当たりですね。
~著者に甘い書き方の部分~
1、愛の具現化だとして作中の猫を評価しているが愛という言葉のイメージに届かなかったようで、読者説得がどうかな?
2、忘れられたプロレタリア文学の説明。マルクスやヘーゲルの説明は誰が行っても難しい。ここは北一郎氏の工夫に期待。
3、同じくポストモダンなどの用語での平成の現代に対しての説明も困難なのでしょうね。大きな物語とかとも。
4、佐久間を作品の隠喩とする設明も読者の胸に落ちたかな?
5、P140で外狩雅巳ほど、小説において現代の社会社会思想の変遷を表現した作家を私は知らない。とは言いすぎ。北氏の読書遍歴に係る。重大発言です。ヨイショでないぞと大いに披露しなくっちゃ。
~責任はテクストにあるとも評論家は、自説の立ち位置の説明責任が必要です。納得は読者が決めます。北一郎評を本物にするための討議を巻き起こしたくこの一文を書きました。 粗筋説明や同感。物語への興味や整合性などでの短い作品評のみでもなかなかもらえないのが同人誌作家の現状です。時代と拮抗できる文芸評論家の出現を期待しています。きな臭い政治のきな臭い政治の時代に文学の言葉はどこまで届くのでしょうか。~~
 これは小説「この路地抜けられます」を、テクストとして北が論評したその「~読み方」を作者がテクストとして読んだものである。北としては、参考にするが、解釈は自由で、特にいうことはない。
 このなかで「外狩雅巳ほど、小説において現代の社会社会思想の変遷を表現した作家を私は知らない、とは言いすぎ。」としているが、ここでそれについてだけ言及しよう。
 作者は、この小説の主人公「俺」を大衆性をもったバカな男して描いたために、格好をつけずに、「資本論も革命論もよく知らずに、空気に流されてデモに参加しただけの自分」と反省しているところは、これまで左翼運動を題材にした小説では、おそらくないであろう。
 安保闘争について同人誌や商業誌に書かれた小説は、みんな格好をつけてそのことに触れない。ましてや、安保条約がなかったら日本はどうなっていたか、そのことに対する想像力の欠如こそ独立心の欠如である。米国の慰安婦として経済大国になって、それ以外のことは考えたくない日本人。外狩作品では、主人公を莫迦な男として描いたからこそ、寅さんのようにずばりと、皮肉に急所を突いていると受け取ったのである。

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