豊田一郎「屋根裏の鼠」に読む「文芸的社会史観」(2)
豊田一郎「屋根裏の鼠」を「詩人回廊」に連載中である。これは小説なのか、評論なのか、そこを考えてみた。内容は豊田・人類史観であり、18世紀から続いてきた「人間主義史観」の一種と言える。人は自分の存在を確認しないではいられない。自己確認にもいろいろな方法があるが、特に文芸においては、自己の存在を通して読者の存在感を刺激すること、それが読まれる重要な要素である。
「屋根裏の鼠」において、存在感を刺激する要素はどこにあるか。おそらく、通常の読者にはその要素は希薄であろう。この作品は、作者と同じく、書くことと世界人類の存在意義について考える読者向けである。人間は生きているうえで、自分の存在するこの世界について、その人なりに把握し理解しているものである。無意識のなかにおいてでもある。
ましてや想像的な作品を書く場合には、まずこの世界観を背景に書いている。若者の「セカイ」系作品というのも、作品成立条件を限定してお話の「セカイ」を区切っている。これにはそれなりに現代の時代性がある。
それとは別に「屋根裏の鼠」は、限定のない自由な感性による世界観の話をしている。世俗的な「小説」とは異なるように見えて、それは人間についての「物語」なのである。一日本人の視点で人類の歴史をたどり、その未来を展望している。基本は、西欧思想と根本的に異なる日本人のアニミズム精神である。物語と小説とはどう違うか、それはべつのところで論じたい。
一般的に、ものを表現する姿勢には、この世界が自分を抑圧し、圧迫していると感じてそれに反抗、抗議するか、それとも、世界は自己存在を自由にし、解放してくれるからと、賛美するかどちらかである。では、「屋根裏の鼠」は、どのような立場なのか? そういう視点で読む必要があるのだ。
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