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2013年11月14日 (木)

豊田一郎「屋根裏の鼠」に読む「文芸的社会史観」(3)

  「屋根裏の鼠」(詩人回廊)における豊田史観では、人間がものを造ってきたことを強調している。道具を発明する。そこでは、「そうした我々の存在を位置づけようと、我々は宗教と哲学を生み出している。そこから派生して、数学や科学、そして医術が生まれる。それらを学問と称し、我々は知識の集積とその拡大に狂奔するようになる。芸術もまた、その分野に含まれている。しかし、我々は今、我々が作り上げて来たあらゆるものに絡みとられて、身動きが取れなくなっている」――というのだ。
  つまり、作者は人類の行き詰まり感を表明している。過ちを犯しているという発想がある。これは作者が身近に感じている生活的な情報をつなぎ合わせ紡ぐことで、そこに意味をつたえるものだ。生活の中の断片的な情報をつなぎ合わせ意味づけをすることは、人類が「神話」としてそれをもっているように、自己存在を位置付ける意義がある。これはこれで、神話的な「物語」をしているのである。ただ、一般的な小説は個人の具体的な行為を描き、人物像を浮き立たせるものである。そうした人物が自分の世界観を語るように仕組むものだが、これは直接作者が前に出ている。小説につきものの描写の奥に寝ていられない心境のものなのであろう。
 こうした見方そのものは、作家の高村薫が、阪神大震災を経験して、都会に高層ビルが必要なのか、新幹線は、リニア新幹線は本当に必要なのかと、疑問を呈しているのと同じであろう。
 これをテクストとして読むと、そこで一貫している。もともとテクスト論というのは、その作品周囲を考慮せずに、―書かれた文章のみを取り上げれば、様ざまに解釈できる―とするもので、書かれたときに、それはすでに矛盾を内包しているという発想である。私はあまり同感はしないが、本来は止まることなく揺れ続ける心や気分は、言葉にしたことによって、……まさにそのことによって、心境が変化するということは事実である。したがって書かれたことを現在形で評価することは、誤解のもとになる。

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