文芸同人誌「砂」第123号(東京)
【「九蓮宝燈」木下隆】
サラリーマンの村田幸治は、会社帰りに職場の仲間と麻雀の最中から小説が始まる。3年ほどの経験であるが、なんと「九蓮宝燈」をテンぱってしまうのだ。手が震え、動作がロボットのようにぎこちなくなる。この書き出しは素晴らしい。スリルと緊張感がたっぷりだ。そして、見事ロン牌が出た。あがりだ。これで、社内でやや軽んじられていた同僚の間で、一目置かれるようになる。高揚感にひたる。しかし、麻雀で同僚から大勝ちして金を巻き上げていることが課長に知られててしまう。やや不安になる。落ち込み感。そして、友人から「九蓮宝燈」をやった人は間もなく死ぬという都市伝説がある事を教えられる。阿佐田哲也も「麻雀放浪記」でその例を書いいている。えっ、となってがーんである。また緊張感。道を歩くにも、信号を渡るにも、細心の注意が必要だ。そんなある日、麻雀で夜遅く帰ると、駅の改札で赤ん坊を抱いた女が立っている。それは、アパートの鍵を失くした妻が、部屋に入れず寒空の下2時間も夫の帰りを待ち続けていたのだ。おお、なんという愛しくも切ない女心だ。しかも、彼女は家計をを切りまわすお金を紛失してしまっていた。村田は麻雀で得た金をそれに充当することにする――。めでたし、めでたしである。これは予想もしない予定調和の結末で、またびっくり。
じつは私は、この「砂」の形ばかりの同人で、久しぶりに合評会に出たことがある。木下さんの前作を「よくできた作文」と評した。それというのも、彼が文芸作品を書きたいと言ったように思えたからである。それなら、これは作文で文芸ではない、と感想を述べたのである(実にへそまがりな自分である。友達ができないのが当然だ)。すると彼は不当な評価だと怒ってしまった。文章教室の講師も褒めたという。本当は良い作品なのだった。ところが、私の根性が良くない。文芸評論家がほめようが、読者として、最初から結論のあるものなら、社会論文にすればいい。これでは文芸にはならない、と言いがかりをつける。そして「次に私をぎゃふんと言わせるものを書けばいいではないですか」と言い放った。当然であるが、彼はそれに腹の虫がおさまらず、しばらく投稿がなかった。(我ながら悪い奴だと思う)。それが久しぶりに投稿したのが本作である。大げさにいえば、これは短編ながら読者の心をゆさぶり惹きつける「うねり」のつくりは、ドスエフスキーの「罪と罰」に匹敵する。とにかく、木下さんには「ぎゃふん」といわされました。一般論として、大会社に定年まで勤めて、退職後に文学をやるという人はには、自分に文学的センスがないことに気づかない人が少なくないと思っていた。しかし、木下氏の例を考えると、どうもセンスがないのではなく、眠っているだけで、努力でそれを磨きだすことが可能なのだ。それにしても何処までも学んで前進する姿勢には感銘を受ける。木下氏の社会人としての大人の対応に比べ、なんという自分の子供じみた言動なのだろう。ただ懺悔するしかない。いまさら遅いのであるが、いつも自分は反省が遅すぎるのである。
発行所=〒134-0091東京都江戸川区船堀1-3-3-204、牧野方。
紹介者「詩人回廊」北一郎。
| 固定リンク
コメント