プロレタリア文学の定義と方向性
いま文芸評論に取り組んでいる。まず、外狩雅巳「この路地抜けられます」を対象にし、経済学的社会批判の視点を取り入れてみようと思っている。≪参照:「外狩雅巳のひろば」≫そのためには資本主義の特徴的な素因ーー人間の「労働力」が時給、日給、月給単位で商品として扱われるーーところに社会的な矛盾がある、ということを説明する必要がある。そうした原理と文学の関係を調べていたら、次のような評論が目に付いた。専門家が言及してくれると助かる。北一郎が言ったでは信用されないから。これを評論に引用するつもりである。
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雑誌「民主文学」(2003年10月号)で、「人は何によって人となっていくかー職場を描いた一連の作品を読んで」と題し、牛久保建男氏がプロレタリア文学の現代的な定義と方向性を記している。それにはこう記されている。
「--これまでの一部批評に労働現場を描いた作品について一面的にこれは現代のプロレタリ文学だとよく言われる。それらの評にはプロレタリア文学について正確な認識がないと私には思われるので、プロレタリア文学の特徴についてかんたんにのべておきたい。一つは、当時の絶対主義的天皇制国家権力との戦いである。これは日本文学の地平を開いた。二つ目は労働者を描くと言ってもその悲惨を描くのではなく、自然発生的な労働者のたたかいから発展して、労働者階級の組織的な戦いを描いたこと。三つ目は農民小説の発展。四っつ目は文学理論の科学的深化。これら四つの観点が総合的にとりくまれた。労働者を描くにしても、それを階級闘争のなかに位置付けて書くということに、作家も、文学運動も苦心したのである。だから労働者の状況を描いただけではプロレタリア文学とはいえない。あえていえば初期プロレタリア文学というべきだろう。」
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コメント
外狩先生の「この路地抜けられます」読みました。
底辺労働者たちのおかれた状況がわかりやすく書かれた。象徴的に描かれた北一郎氏が言っていますが、問題点もあると思います。
文芸同人誌の作品としては、どうなのでしょうか。もっと高尚な苦悩を表現したい人の集まりではないのですか。
思考を磨く環境に育ち文学作品に親しんで高齢になりその蓄積を絞って文学に接する同人誌会員がどう読むかですね。
おおよそ、堪え性の無い主人公。不幸な生い立ちから知性を磨けず成人になり労働者となった主人公と民衆的な共通性があるのでしょうか。
現代人の苦悩とはこんな即物的・肉体的な悩みのレベルでしょう。複雑な人間関係での悩みとその深みにとどいているかのでしょうか。
また、立ち上がる主人公の底の浅さは文章からもイメージされます。外狩先生は、主人公を批判的、客観的に書いているようです。でも、読者はそれを正しく評価するでしょうか。
「詩人回廊」の外狩自伝では、若い時から労働者になり読みやすいプロレタリア文学に親しんでいますね。体験からのフクション化がわかります。
プロレタリア文学は労働者階級が社会の主人公になる可能性を心身ともに理解する事を目的にしていませんか。
未来を信じて、戦える気概を与える目的で書かれているのでは。戦前は文学史に残る戦いをして今は消滅していませんか。
労働者が寝転がって読める作品を、と小林多喜二は講談ものに負けない庶民的読み物を目指していたように聞いています。
プロレタリア文学作品を中村武羅夫は、「花園を荒らすのは誰だ」と嫌悪感を示したとも聞きます。知識階層に本物の理解と共感は根付いなかったということではないですか。
21世紀の先進国日本を達成したプライドをもつい技術労働者。文学に馴染み知的生活の支えにしている感性ある人々。
文芸同人誌会員はプチプル的な心にゆとりがあるひとが多いでしょう。小説「この路地抜けられます」は彼らが求める文學作品となりうるののでしょうか。
投稿: 川東建次 | 2013年9月27日 (金) 09時59分