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2013年9月 2日 (月)

豊田一郎「マリアの乳房」に読む絆の切断

 豊田一郎の庭「詩人回廊」小説「マリアの乳房」は、中学卒業の若者が自律生活をした後の話である。出来ごとのなかで、幼児期の母親との絆のつまづきをうまく処理できていない状況を、浮き彫りにする。人間精神の根源に向けたテーマなので、時代はいつでもいいのだ。それが豊田式の観念の具象化の方法だ。ここでは若者の欠乏補充の意識の欠落、引きこもり精神の形を描く。
 冒頭で若者は夢を見る。こう書いてある。『それにしても、嫌な夢だった。あの女に違いない。夢なので、表情まで定かではなかったが、あの女でしかない。乳房を露わにして、僕に迫って来る。僕が手を伸ばし、乳房を掴もうとする。しかし、掴めない。女が笑って言う。だらしがない男ねと。そこで、目が覚めた。』。ここで若者の精神的な自律性が、傷ついていることが示される。
 若者は飴メーカーに勤める。ここでは真面目に勤めて、会社を大きくする。収入の安定をはかる。社会人としての役割を果たす。そこで、まず生活費の充足で欠乏意識が消える。すると、会社の女の女の乳房を目入れる機会に出会う。
 そこでの、若者の意識はこう語られる。
『そして、夢を見る。母親らしい女がいた。僕は母親の乳房をまさぐる。しかし、それには触れられない。いや、マリアの胸には乳房がなかった。それでも、僕は乳房を求め続けていた。』
 人間は、母親から生まれて、乳離れをし、自律をするまでには、さまざまなトラウマを抱える。自律してからもそれは痕跡を残す。私の精神分析的解釈では、幼児が母親の乳房と離された時期は、自分が母親と一体ではないことを自覚させられる。しかし、それでも母親、乳房は自分のものという所有意識はある。母親と一体でありたいという欲望を残す。その一体感欲望を壊すのが父親の存在である。父親もまた、自分の母親の乳房を所有する存在だからだ。こうして子供は母親の存在が自分だけの所有でないことを認めざるを得ない。この「あきらめ」によって、これを心理的な去勢状態になるとの解釈もある。その去勢された状況を解消すべく、欲望をもち、それを充足しようとして成人になっていく。社会に出て欠落感の充足をする戦いがはじまるのだ。
 この小説では、若者の物ごころのついた時期には、父親はいなかった。交通事故で死んだと母親に教えられている。若者は、意識の成長段階で、母親と一体感を得ていた期間があった。
 そのことが、影響したかどうかは、わからない。しかし、若者の意識は、幼児期につかんだ乳房をひきはがされたことのトラウマから出ようとはしない。母親とは、若者にとって存在を無条件に肯定してくれる存在、マリアである。その乳房は、若者にとって自我となっている。その残像と重なる現実の乳房を持つ女は、自己中心的な欲望を満たす場合だけ、つまり彼が彼女に何かを与えるかどうかの評価で、存在を認める悪魔のように思える。社会生活での意識の切り替えに失敗している。
 若者は社会の掟である法に問われても、反駁しない。引きこもり精神の反映がある。現実の社会は、その人の行為、行動によって存在を評価する。しかし、若者は存在するだけで、認めてくれる母性の無条件的な愛にこだわるのである。
 この小説は、作者自身がなにか一つのテーマのものを書きあげた後で、ふと頭によぎった人間の原点を描いたもののように読める。作家は勘で人間の内面をさぐるのだが、ここでしっかりとした構造を構築し読者に問題提起をしている。

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