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2013年9月27日 (金)

文芸時評9月(東京新聞9月26日)沼野充義氏

タイトルの意味するもの/村上春樹編訳「恋しくて」/平野啓一郎「family  affair」/石原慎太郎「やや暴力的に」。
≪対象作品≫短編アンソロジー村上春樹編訳「恋しくて」「恋するザムザ」収録(中央公論新社)/平野啓一郎「family  affair」(新潮)/村上春樹「ファミリー・アフェア」(短編集「パン屋再襲撃」所載)/石原慎太郎「やや暴力的に」(文学界)/ラモーナ・オースベル「安全航海」岸本佐和子訳(群像)/向井豊昭(1933~2008)遺作「用意、ドン」(早稲田文学)/宮下遼「ハキルファキル(卑しく貧しい者の意)」(群像)/浅生鴨「エビくん」(同)。

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2013年9月25日 (水)

漫画に影響された小説?綿矢りさ『大地のゲーム』(新潮社)

 現代人の微妙な距離感や形容しづらい感情を巧みにつづる綿矢りささん(29)。新作『大地のゲーム』(新潮社)では一転して、巨大地震に見舞われた近未来を生き抜く大学生を描いた。「何かが根底から覆される不穏さを書く」と筆をとった物語は、震災後の人々の心と共振する。(海老沢類)≪綿矢りささん新作「大地のゲーム」 災禍経て「生」とらえ直すー産経2013.9.25≫
 舞台は21世紀終盤の大都市。7万人もの死者を出した地震の後で、寒冷化が進み平均寿命も縮んでいる。おまけに政府は1年以内に第2の巨大地震が起こると警告している。崩壊に瀕(ひん)した都市の、危険地域にある大学に残った学生たちの共同生活が、女子学生「私」の一人称でつづられる。
 「危機的な状況だと頭では分かっているつもりで、やっぱり『自分は大丈夫』と思っている。欲望があり、たくましく、自意識で悩んだりせず、まず身体が動く。そんな人々のドライブ感を出したかった」と綿矢さん。徹底して生を肯定する、むき出しのエネルギーのぶつかり合いの先に希望を見据える。
 死が間近にある極限状況下のサバイバルという筋立ては、英の作家、ゴールディングの『蠅の王』に通じるが、執筆中、楳図(うめず)かずおさんの漫画『漂流教室』を読み込んだ。「砂漠のような果てしなさと、子供の成長…。初読だったけど、かなり影響されている」と明かす。
 

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2013年9月22日 (日)

自由な文芸愛好家たちの集い。町田市にて

会員の外狩氏が、「自由な文芸愛好家たちの集い」をするというので、9月21日に、町田まで行った。≪参照:「文芸同志会のひろば」≫
 これからは詩人・北一郎で文芸活動に専念するつもりで、参加した。十人十色で個人個人の話を聞くのも面白いものだ。

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2013年9月21日 (土)

病床から小説を書き始めた鈴木伸氏。ファンタジーノベル優秀賞「きのこ村の女英雄」

大学卒業後にスポーツクラブのトレーナーになったが、27歳の時に心臓病を患って退職。病床から天井を眺めて過ごす日々の中、「せっかく拾った命だから」と幼いころから好きだった小説を書き始めた。最初に書いた作品は原稿用紙約4000枚の大長編。その後も「長い作品ばかりで応募規定に合わない」と苦笑するほど、着想がわいてきた。病気を乗り越えて再就職も果たし、今では早朝5時半に起き、出勤前の2時間の執筆が日課となっている。
 小説を書き始めて8年、ようやくつかんだ作家への道。「何かを得たり、元気が出たり、人の役に立つ作品を書きたい」と語った。「日本ファンタジーノベル大賞優秀賞」「きのこ村の女英雄」(2013年9月20日 読売新聞)
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2013年9月20日 (金)

プロレタリア文学の定義と方向性

   いま文芸評論に取り組んでいる。まず、外狩雅巳「この路地抜けられます」を対象にし、経済学的社会批判の視点を取り入れてみようと思っている。≪参照:「外狩雅巳のひろば」≫そのためには資本主義の特徴的な素因ーー人間の「労働力」が時給、日給、月給単位で商品として扱われるーーところに社会的な矛盾がある、ということを説明する必要がある。そうした原理と文学の関係を調べていたら、次のような評論が目に付いた。専門家が言及してくれると助かる。北一郎が言ったでは信用されないから。これを評論に引用するつもりである。
                 ☆
  雑誌「民主文学」(2003年10月号)で、「人は何によって人となっていくかー職場を描いた一連の作品を読んで」と題し、牛久保建男氏がプロレタリア文学の現代的な定義と方向性を記している。それにはこう記されている。
「--これまでの一部批評に労働現場を描いた作品について一面的にこれは現代のプロレタリ文学だとよく言われる。それらの評にはプロレタリア文学について正確な認識がないと私には思われるので、プロレタリア文学の特徴についてかんたんにのべておきたい。一つは、当時の絶対主義的天皇制国家権力との戦いである。これは日本文学の地平を開いた。二つ目は労働者を描くと言ってもその悲惨を描くのではなく、自然発生的な労働者のたたかいから発展して、労働者階級の組織的な戦いを描いたこと。三つ目は農民小説の発展。四っつ目は文学理論の科学的深化。これら四つの観点が総合的にとりくまれた。労働者を描くにしても、それを階級闘争のなかに位置付けて書くということに、作家も、文学運動も苦心したのである。だから労働者の状況を描いただけではプロレタリア文学とはいえない。あえていえば初期プロレタリア文学というべきだろう。」

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2013年9月17日 (火)

デジタル印刷の少部数生産で採算

. 講談社と小学館は少部数用の生産、増刷に対応するデジタル印刷・製本機を導入している。こまめな増刷などに対応することで、品切れの防止やコスト削減につなげる狙いだ。「デジタル印刷の少部数生産」 (文化部 川村律文)(2013年9月15日 読売新聞)

 講談社は文庫や教科書などを製造するインクジェット式の印刷・製本機を導入し、2月から本格運用を始めた。文庫本であれば1時間に約1200部の生産が可能で、当面は月に300~400タイトルの製造を目指す。よく調べればルビなどがゆらいで見える部分もあるが、梅崎健次郎業務局長は「読者がほぼ気がつかないレベル」と語る。
 また、小学館は文庫やコミックを生産できる印刷・製本機を3月から稼働。すでに少部数で2度重版をかける作品も出ている。
 印刷会社によるオフセット印刷の増刷は、製版の固定費がかかるため、1000部程度以上を刷らなければ採算ベースにのらない。しかしデジタル印刷であれば、50部、100部という少部数からの生産が可能になる。品切れ状態が続くという事態を避けられる。

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2013年9月16日 (月)

体験と創作の関係

 北一郎の旧作「はこべの季節」を、「詩人回廊」に掲載することにした。これは2003年、青山ブックセンターで開催された第2回「文学フリマ」に出したもの。この時期は、ネットの利用の初期で、どれも横書きであった。そこで、今後は純文学も横書きだろうと、「水平読み・純文学」とし、売り場で「あなたは横書きで文学が感じられるか」、とか問題提起した。知り合いの文芸評論家や編集者が興味を持ったが、その後反応的音沙汰なし。ただ、先ごろ「abさんご」が横書きで芥川賞になった時、「そういえば、同志会で横書き純文学小説をやっていたよね」という人がいて、こっちはすっかり忘れていて、そうだったな、と思いだした次第。さがしたらデーターが残っていた。ヤフーのメールホルダに原稿添付ファイルで保存してあった。ヤフーのフォルダは長期に変わらず保存しくれるので、すごい。
 今回、とりあえず冒頭部を出したのは、これから北一郎名義で、労働者文学作家の「外狩雅巳の庭」で「この路地抜けられます」を例にあげた文芸評論をするので、「論評する当人はどんなものが書けるのだ」と思うひとのために、まず掲示したもの。出だしの迫力では外狩「この路地抜けられます」の方が巧く、迫力がある。ただ、お互いに労働者体験があって、同時期に働きながら夜間大学に通った、という共通体験に特別な思い入れがあって言及しているのだなーということがわかってもらえれば、という意図である。

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2013年9月14日 (土)

文芸同人誌「仙台文学」82号(仙台市)

 地域の「文学祭」などを行う宮城県芸術協会が公益法人化されたと編集後記にある。9月25日~20日には「象潟・酒田・鶴岡文学の旅」が行われるという。地域活動から離れて、遠くからの作品鑑賞は、妥当なのかどうか、疑問に感じることがある。余計な口出しであるが、なかには重要な研究資料もあるはずで、過去には、どの同人誌かは忘れたが、たまに研究者からの問い合わせもあったことがある。
【「天明の銀札始末~小人目付新兵衛見廻録」宇津志勇三】
 天明の飢饉で、食糧不足とインフレの惨状を描く歴史小説。仙台藩で22万人、4人に一人の餓死者が出たという。貴重な資料の存在と、それを活用した気力のこもった作品。日本的民族体質は、気候変動で幾度も飢饉に会いその体験を前提に、少カロリーで活動する体質に作られてきた。それが現代のように飽食時代になると、糖尿病になりやすい。これまでの民族的体質は失われてきているのではないか、と考えさせられる。
【「我が身を救う術は無く~仙台維新譜⑧」牛島富美二】
 これも歴史小説で、西洋渡来医師ヘボンに学んだ山田良琢の戊辰戦争の余波に巻き込まれ、富を得たことの世間の蔭口に見舞われ自死する悲劇を描く。過去の履歴には、当人しか知らない経緯があるはずだが、世間は表面的な見方で噂を囃す。それをなぜ、無視できなかったのか。現代でもあることで、考えさせられる史実である。
【「詩本論(二)詩の方向性と詩人の立場」酒谷博之】
 詩作の原点を真善美に置いた手法を理論的に解明している。
【「砦麻呂の末裔たち」高橋道子】
 日本の自然と伝統を原発事故で破壊された嘆きが伝わる。
【「石川啄木詩一編の謎~森に潜むもの」牛島富美二】
 啄木は「雲は天才である」という生前未発表の小説があり、そこに歌として登場する元の詩が、昭和十一年「情熱の詩人啄木」で映画化された時に助監督が加筆されて伝わっているのだという。そこから啄木が学校の裏山の森を想像力をもって愛したであろうことが記され、筆者の身近にある森の世界への愛着を語る。森には人間関係からではない、孤立感のない自律的な自由な孤独が得られるところがある。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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2013年9月11日 (水)

「トルネード」斎藤 なつみ ~~~~~~江素瑛

「詩人回廊」詩流プロムナードに移行しました。 「トルネード」斎藤 なつみ

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2013年9月 9日 (月)

佐藤 裕 「見捨てられた兄妹」にみるイタコ的イメージ

 恐山のイタコは、亡くなった人の霊を招いて、故人の気持ちを語ってくれるそうである。「詩人回廊」の≪佐藤 裕「見捨てられた兄妹」≫を読むと、そういえば我が家にもそういう状況の時期があったような気がしてくる。詩人・佐藤裕は比喩、隠喩、暗喩を多彩に用いるのだが、時折じつに具体的に見てきたように市井の現象を語る時がある。しかし、それがどれも個別的な事実を示したとは限らない。いつもそうではないにしても、確かに我が家でもこのような時期があった。全体が暗喩なのかも知れないと思いつつ、なんとなく悲しみと悔悟の情に襲われる。詩的表現と言えば、かなり曖昧で幅のある表現が特徴だが、このようにリアリズムで書いても長期的に有効ではないか、と思わせるのは収穫のうちであろう。眠った神経を叩き起こすようなスタイル。詩の世界にもイタコの居場所がありそうだ。
        

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2013年9月 8日 (日)

文芸同人誌「群系」第32号(東京)

 このところ心身ともに朦朧としてきて、読んでも書くことができない。過去に読んだことがあると思っていた「群系」であるが、もっと柔らかいイメージがあった。勘違いかも知れない。当方の歯が弱くなったのか、読んでも硬くて歯がたたない研究・評論が多い。ただ、読むと。ああそうか、教えられることが多い,。各評論が良く言えば多彩でにぎやか、悪く言えば誰もが気ままでばらばらに語る。自由なサロン文学の集いであろう。うらやましいような感じがしないでもない・
【「お嬢吉三にはなれない」土倉ヒロ子】
 亡くなった祖母と同年代の女性を専門にしたホストクラブを経営し、そのひとりの相手をする若者の行為と心情を描く。生と死と退廃と老生とーー。ボードレールの「悪の華」の世界か。ただ、退廃の美的強度がもうすこし欲しいような気がする。
【「映画『下町』プレスシート」野寄勉】
 この映画は見ていないが、パンフレットをまる写ししているところがあるので、まるで映画館にいるような気にさせられる。楽しく読んだ。原作者・林芙美子の小説の文章は、私はかなり研究的に読んだ。ざっくりしとした生活的な書き方なのに、人間的底辺の詩情と文学性がある。「めし」と一緒に幾度も読んだ。いじましいことだが、当時は、自分だって下積みの苦労があるのだから、彼女の文章世界に迫りたいと思ったことがある。自分の人間的な限界が文章の限界になっていることさとらされた。私が他者の文章に向けて、冷やかなところがあると感じさせるものがあるとすれば、それは自分の限界に対する負け惜しみであろう。
【「国木田独歩―人間独歩・もうひとりの明治人」間島康子】
 独歩は、詩的な散文精神をもって小説に拡大しようとして未完成で世を去った。その生活的な成行きがわかる。私自身は、独歩散文の延長線上に日本文学の展望があると、いまだに考えている。箱根に行くと、湯河原の万葉公園に寄ったものだ。そこの文学館には芥川龍之介に小説材料を提供した文学青年のことや独歩の足跡があって好きな場所であった。本評論で、惜しむらくはタイトルが散漫である。書いてからタイトルを決めるとそういうことがある。ピタッと来るタイトルが出来るまで待って、あらためて推敲すると焦点が合うことが多い。
紹介者=「詩人回廊」 北 一郎

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2013年9月 7日 (土)

このごろの外狩雅巳氏と雑木林文学の会

 文学表現には、いろいろな手段に使われる。思想や感覚を世間に広めるために創作や文芸評論に参加する人も多い。その場合、その世界全体が長期的にどの方向に向かうかという判断と、人々の関心を盛り上げて行くという2つの活動が主なものになる。文芸同志会は、できるだけその二つの流れに沿おうとやってきている。たまたま、「外狩雅巳の庭」で文学論や自伝を書き、会のサイトでリンクさせてきた。ネットは、架空空間的なので、全部つなげて読む人はいないはず、という前提で、作家論の手掛かりとして、「外狩雅巳の世界ガイド」という冊子をに編集した。≪参照:文芸同志会のひろば≫すると、外狩氏はそれを独自に自分の周辺に配布PRをしているという。サブカルチャーでは、外部関係を風景として限定し、その中で自分の物語をするのを<セカイ系作品>という。たとえば、シリアの内戦を取材に行った人が、現地で取材仲間の女性と恋愛関係に入る。すると、シリアの国際情勢は問題にならずに、好きだ嫌いだの恋愛話だけで終わるようなもの。外狩氏もついにセカイ系の手法を取り入れたことになる。私はガイドを作ったのは、基本にそうした発想があったのだが、本質は、これは会に問い合わせの多かった「文芸同人誌ってどうなっているの」という質問への参考になるようなので、文学フリマに出してみようというものだった。
 それと会では「雑木林文学の会」に入会してもらい、ひろばを作った。これは、私の文芸同人誌の原点と考える実際生活を反映させる要素が強いので、象徴として入ってもらった。本誌も文学フリマで店に並べる予定です。

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2013年9月 6日 (金)

【文芸月評】9月5日(読売新聞)成長物語 青春を愛惜

 日常揺らぐ現代の若者も
 ≪対象作品≫
藤野千夜(51)「ホームメイキング同好会」(「すばる」/木村紅美(くみ)(37)の「ナイト・ライド・ホーム」(文学界)/新庄耕(29)「オッケ、グッジョブ」(すばる)/小山田浩子さん(29)「穴」(新潮)/いとうせいこう(52)「存在しない小説」(群像)。(文化部 待田晋哉)

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2013年9月 4日 (水)

著者メッセージ: 佐藤友哉さん 『ナイン・ストーリーズ』

 みなさんは『ナイン・ストーリーズ』ということばを、これまでの人生で どれほど耳にしたでしょう? 元はJ・D・サリンジャーの短編集のタイトルなのですが、今やそれは多くの物語に借用・流用されています。(講談社『BOOK倶楽部メール』 2013年9月1日号より)
 トジツキハジメさんがそのまま『ナインストーリーズ』というタイトルで漫画を、九人の小説家による『源氏物語』トリビュート本は『ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ』で、ドン・デリーロの短編集は『天使エスメラルダ 9つの物語』となっています。
 ちなみに『九つの物語』というのは、『ナイン・ストーリーズ』のかつての邦題で、1963年の思潮社版、1969年の荒地出版社版、1969年の角川書店版が、すべて同タイトルでした。
 さらには、ミュージシャン林哲司さんのアルバムタイトルも『ナイン・ストーリーズ』で、宮崎薫さん(CHAGE&ASKAのASKAの娘)が去年発表したアルバムは『9 STORIES』で……数え上げたらきりがないので省略。
 僕が今回書いた『ナイン・ストーリーズ』もまた、その系譜に属するのでしょう。サリンジャーの魂とストーリーの神さまに捧げた、至高の一冊となるのでしょう。
 さて。みなさんの頭には、一つの疑問が浮かんでいるはずです。「なんでみんな、そのタイトルを使いたがるの? コピーの誹りを受けるかもしれないのに。せっかく自分で物語を作ったのに。そんなわざわざ」
 その問いには、こう答えるしかありません。
 逆襲。 僕たちはあえて自作をコピーに貶め、どこまで原典と戦えるのかを、どこまで現実に居座れるのかを、確認したくてたまらないのです。もちろん、コピーの最期は知っています。かならず敗北することなど、とっくに承知です。
 だとしても、コピーの側についてやりたいのです。コピーの一瞬の輝きほど美しいものはないのだから。
 マリリン・モンローのコピーとなるために生まれ、恋をする前に殺されてしまったジョンベネちゃんのように。 (佐藤友哉)

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2013年9月 3日 (火)

「文芸思潮」51号・座談会に東京新聞「大波小波」で応対

  東京新聞9月2日夕刊文芸コラム「大波小波」で、文芸思潮51号(アジア文化社)の座談会「80年代の批評と文学」(出席者=井口時男、川村湊、菊田均、富岡幸一郎、三田誠広)を辛口で批評している。その要因のひとつが、座談会のなかで「絶対何か『大波小波』あたりで出そうだよね」(富岡)というのがあるので、「ご期待に沿えたかな」(山椒魚)ということだ。
  この座談会は1980年代から文芸批評の存在が分散し、文壇的な文学の世界は転換していく様子が語られている。出てくる言葉は、ポップカルチャーの隆盛からサブカルチャー時代に、評論家の江藤淳の死がマルクス主義思想の葬送時代への移行を示したこと。文芸評論のエリアが広くなり拡散してしまい、中上健次や竹田 青嗣など、民俗学や哲学からの文芸批評への進出がはじまった頃が話し合われている。
  評論の対象としての共通性が失われてくると、できるだけ話の通じる範囲の広いものでないと出版商業的に成り立たない。読者の少ないジャンルに入ってしまうと、その評論を雑誌で取り上げにくくなる。しかし、哲学というのは、データーベースが広いから、文芸と結び付けば活躍できる余地があったらしい。柄谷行人、三浦雅士などのあと、大塚英志、東浩紀がサブカルチャー文芸評論にあらわれたけど、評論の対象が流行ものなので、変遷がはげしい。社会的には、1ドルで円が150円を切ったというので騒いでいた。企業がコンピューター導入でスクラップ・アンド・ビルドで体質転換。日航機事故、スペースシャトルが爆発し、チェルノブイリ原発事故。昭和天皇崩御で、全国民が喪に服し、商店街が灯を消した時代。まとまりのない時代になって、ポストモダン時代を実感させられることになる。

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2013年9月 2日 (月)

豊田一郎「マリアの乳房」に読む絆の切断

 豊田一郎の庭「詩人回廊」小説「マリアの乳房」は、中学卒業の若者が自律生活をした後の話である。出来ごとのなかで、幼児期の母親との絆のつまづきをうまく処理できていない状況を、浮き彫りにする。人間精神の根源に向けたテーマなので、時代はいつでもいいのだ。それが豊田式の観念の具象化の方法だ。ここでは若者の欠乏補充の意識の欠落、引きこもり精神の形を描く。
 冒頭で若者は夢を見る。こう書いてある。『それにしても、嫌な夢だった。あの女に違いない。夢なので、表情まで定かではなかったが、あの女でしかない。乳房を露わにして、僕に迫って来る。僕が手を伸ばし、乳房を掴もうとする。しかし、掴めない。女が笑って言う。だらしがない男ねと。そこで、目が覚めた。』。ここで若者の精神的な自律性が、傷ついていることが示される。
 若者は飴メーカーに勤める。ここでは真面目に勤めて、会社を大きくする。収入の安定をはかる。社会人としての役割を果たす。そこで、まず生活費の充足で欠乏意識が消える。すると、会社の女の女の乳房を目入れる機会に出会う。
 そこでの、若者の意識はこう語られる。
『そして、夢を見る。母親らしい女がいた。僕は母親の乳房をまさぐる。しかし、それには触れられない。いや、マリアの胸には乳房がなかった。それでも、僕は乳房を求め続けていた。』
 人間は、母親から生まれて、乳離れをし、自律をするまでには、さまざまなトラウマを抱える。自律してからもそれは痕跡を残す。私の精神分析的解釈では、幼児が母親の乳房と離された時期は、自分が母親と一体ではないことを自覚させられる。しかし、それでも母親、乳房は自分のものという所有意識はある。母親と一体でありたいという欲望を残す。その一体感欲望を壊すのが父親の存在である。父親もまた、自分の母親の乳房を所有する存在だからだ。こうして子供は母親の存在が自分だけの所有でないことを認めざるを得ない。この「あきらめ」によって、これを心理的な去勢状態になるとの解釈もある。その去勢された状況を解消すべく、欲望をもち、それを充足しようとして成人になっていく。社会に出て欠落感の充足をする戦いがはじまるのだ。
 この小説では、若者の物ごころのついた時期には、父親はいなかった。交通事故で死んだと母親に教えられている。若者は、意識の成長段階で、母親と一体感を得ていた期間があった。
 そのことが、影響したかどうかは、わからない。しかし、若者の意識は、幼児期につかんだ乳房をひきはがされたことのトラウマから出ようとはしない。母親とは、若者にとって存在を無条件に肯定してくれる存在、マリアである。その乳房は、若者にとって自我となっている。その残像と重なる現実の乳房を持つ女は、自己中心的な欲望を満たす場合だけ、つまり彼が彼女に何かを与えるかどうかの評価で、存在を認める悪魔のように思える。社会生活での意識の切り替えに失敗している。
 若者は社会の掟である法に問われても、反駁しない。引きこもり精神の反映がある。現実の社会は、その人の行為、行動によって存在を評価する。しかし、若者は存在するだけで、認めてくれる母性の無条件的な愛にこだわるのである。
 この小説は、作者自身がなにか一つのテーマのものを書きあげた後で、ふと頭によぎった人間の原点を描いたもののように読める。作家は勘で人間の内面をさぐるのだが、ここでしっかりとした構造を構築し読者に問題提起をしている。

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2013年9月 1日 (日)

西日本文学展望「西日本新聞」2013年08月28日(朝刊)長野秀樹氏

題「本に纏める」
≪対象作品≫
西田宣子さん『チョウチンアンコウの宿命』(梓書院)、永家光雄さん『歳月』(佐賀県鳥栖市・自家版)
古岡孝信さん「三日間」(「『二十一』せいき」21号、大分市)、吉井恵璃子さん「海と月と星と」(「詩と真実」770号、熊本市)、「九州作家」127号(北九州市)より貴田馨さん「ちょうちょ結び」・宇田尾昇さん「海峡の余波-拾った日本語-」
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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